エピソード 2ー3

 チューブトップのブラウスに、ショートパンツ。その下にガーダーベルトという、ラフと言えばラフだけど、絶対部屋着じゃないだろうと突っ込みたくなるような服装。

 その上に純白のエプロンを身に着けた蒼依がパスタを茹でている。彼女はとてもご機嫌なようで、さきほどからウィスパーボイスで何やら外国の歌を歌っていた。


 読モというだけあってスタイルが抜群にいいが、むしろいまの彼女はアイドルが家に押しかけて料理を作ってくれているようなシチュエーションを彷彿とさせる。

 陽向はフランス語を聞き取れないが、その色気ある音色から恋の歌だと当たりを付けた。


「意識してやってるんだか、天然なんだか……」


 陽向がお皿を用意しながら呟くと、背後から歌声が近付いてくる。

 振り返るより早く、背後からやんわりと抱きすくめられた。背後から陽向に抱きついた彼女は、囁くように歌いながら陽向が掴んだのとは別の皿を指差す。


「……え、なに? 違う? ……あ、こっちの皿がいいのか?」


 よく出来ましたとばかりに、蒼依は歌いながら陽向の頬に唇をかすらせる。頬に唇が触れたのだと気付くより早く、蒼依は陽向から身を離した。

 陽向の肩に零れ落ちていた蒼依の髪が滑ってくすぐったい。


(え、なに、なんだ? キス、キスされたのか!? いや、落ち着け。たしか海外だと、頬に唇を付けるのは挨拶みたいなモノらしいし? でも、だからって……えぇ?)


 ドギマギしてテンパる陽向が振り返るが、彼女は気にした風もなくウィスパーボイスで歌を歌い続けている。まるで意識していないかのような様子。

 と思ったら、彼女は歌いながら自分の唇を指先でなぞった。


 可愛らしいが憎らしいと、陽向は唇を尖らせる。

 だが、すぐに美味しそうな匂いが漂ってきて、陽向は色気よりも食い気を優先することにした。テキパキと皿を並べ、蒼依が盛り付けた皿をテーブルへと並べていく。


「他に運ぶモノはあるか?」

「大丈夫、それで終わりだよ」


 蒼依がコップにお茶を入れてくれる。そうして二人で向かい合うように座ると、両手を広げて「カルボナーラ、召し上がれっ」と無邪気に笑った。

 相変わらずポーズまで完璧である。


 次いで、ふわりと香るチーズの香り。

 それにベーコンや卵を和えたパスタから湯気が上がっている。


「やばい、むっちゃ美味しそう」


 いただきますと、陽向はフォークとスプーンでパスタを巻き付けて口に運ぶ。ふわりと香りが広がり、口の中にじゅわっとベーコンの肉汁が広がる。


「うわぁ、ホントに美味しい」

「そう言ってくれると嬉しいなぁ。足りなければ私の分も食べていいからね」

「いや、さすがにそんなに意地汚くないけど……でも、ちょっとそうしたくなるほど美味しいかも。蒼依は料理が上手だなぁ」


 姫も料理は出来るという設定だが、ここまで美味しく作れるような設定ではない。ヒロインよりもハイスペックだなんてやるな――と、陽向は謎の感心をする。


(って言うか、姫を名乗ったのに、フランスからの留学生で名前も別だとか、色々と聞きたいことがあるんだけど……まぁ食べ終わってからでいいか)


 すっかり胃袋を掴まれた陽向は疑問をほったらかして、はぐはぐとパスタを口に運ぶ。それに対して、ゆっくりと上品にパスタを食べていた蒼依が小さく微笑んだ。

 フォークとスプーンを使っている陽向に対して、彼女はスプーンを使っていない。


「もしかして、スプーンは使わない方がいいのか?」

「うぅん、大丈夫だよ。それは陽向くんが使うかなって思って用意したスプーンだから」

「……ってことは、スプーンは使わないのが本当なのか?」

「イタリアではスプーンを使うのは子供くらいかな? でも、日本のパスタ文化はアメリカの影響を受けているからスプーンを使うことはおかしくないよ」

「……アメリカはパスタを食べるのにスプーンを使うのか?」


 ちょっと意外だと陽向は目を瞬いた。


「聞いた話だけど、当時アメリカから日本に来たパスタは細くてツルッとしてたんだって。だから、フォークだけだと食べにくくてスプーンを使うことが広がったらしいよ」

「へぇ~物知りだな」


 陽向は基本的に、ちょっと雑学に強い女の子が好きである。なので姫もそういう傾向にあるのだが、姫が知っている知識はそもそもが自分で調べた知識なので感動がない。

 蒼依の披露する豆知識に、陽向はちょっとした感動を覚えた。


「じゃあ、蒼依はスプーンを使わない派、なんだ?」


 陽向が問い掛けると、蒼依はふにゃっと相好を崩した。


「……なんだよ?」

「うぅん、陽向くん、私のことを蒼依って呼んでくれたなって思って」

「あぁ、そのことか。そっちは食後に聞こうかなって」

「……そっか」


 姫を名乗った彼女が、別の名前でフランスからの留学生として転校してきた。それについて少しだけ込み入った話になると察したのだろう。

 彼女は少しだけ目を細めた。

 だけど、次の瞬間にはふわりと笑みを浮かべる。


「じゃあ……えっと、スプーンの話だっけ? 私は基本的に使わないけど、でも他の人が使うかどうかはどっちでも良い派だよ」

「どっちでも良い派?」

「イタリアのマナーならスプーンは使わない。日本のマナーなら使う場合もあるし、使わない場合もある。自分と違う考え方を受け入れるのは難しいけど、大切なことだと思うんだよね」


 蒼依は事もなげに言うが、自分と違う人間を受け入れるというのは、簡単なようで意外と難しい。一樹やクリスと付き合いの長い陽向はそのことを良く知っている。


「蒼依は優しいんだな」

「読モだからね。無闇に敵を作りたくないだけだよ」


 思ってもいなかった発言に陽向は瞬いた。


「……そんなにキョトンとしてどうしたの?」

「いや、蒼依は色々と考えてるんだなって思って」

「大人の私にドキッとした?」


 にやっと笑う。

 その反応がなければ完璧だったと陽向は苦笑いを浮かべた。

 そんな感じで他愛もない世間話に花を咲かせながら食事を終え、フォークをテーブルの上に置いてごちそうさまと手を合わす。

 陽向は背筋を正して、改めて蒼依へと視線を向けた。


「それで……どういうことか説明してもらおうか。水瀬 蒼依は本名なのか? それに、フランスから来た留学生だとも言ってたな。姫ってのが嘘なら――」

「嘘は吐いてないよ」


 家から出て行ってもらうと、陽向が口にするより早く彼女は否定した。


「だけどおまえは……」

「そう。私はフランスから留学してきた水瀬 蒼依で、同時に姫宮 秋葉でもある。私は紛れもなく、姫と呼ばれる陽向くんのヒロインだよ」


 きっぱりと断言する。

 姿勢、目線、声色、そのどれもが彼女の言葉は真実だと告げている。

 もちろん、そうして紡がれた言葉が真実のはずはないのだけれど、質問を重ねようとした陽向の前に小皿が差し出された。


 皿に盛り付けられているのはアイスのようなデザート。けれどそれはアイスではなく、アイスのように盛り付けられたヨーグルトだった。

 ブルーベリーが添えられていて、彩りも鮮やかで実に美味しそうだ。


 その皿を見ていると、蒼依がゆっくりとそのお皿を下げ始めた。陽向は反射的に手を伸ばして、その皿をがしっと掴む。


「……分かった、ひとまずは蒼依の言葉を信じるよ」

「陽向くん、ちょろい」

「ちょろい言うな」


 反論するが、既に差し出された小皿を掴んでいて説得力はまるでない。

 わりと甘党な陽向は、既に胃袋を掴まれていた。


 ――というのは半分だけ本当。

 陽向はあれから姉にメールを送って、直接会って話を聞く約束を取り付けている。蒼依の正体については、沙月に聞けば分かるだろうと楽観しているのだ。

 ゆえに、決してちょろいわけではないと、陽向はヨーグルトを口に運んだ。




 翌朝。

 熟睡していた陽向は、控えめなノックの音を聞いたような気がして、ぼんやりと意識を浮上させた。けれど、まだアラームは鳴っていない。

 もう少し眠ろうと再び目をつむる――直後、カチャリと扉が開いた。


「陽向くん、朝だよぅ~」


 囁くような声と共に、その声の主が陽向の眠るベッドに近付いてくる。


(ふわ……なんだ? 姉さん……僕になにかようなのかな……って、あれ? 違う、姉さんは帰ってきてない。ってことは……蒼依、なのか? ……蒼依!?)


 無意識に蒼依を身内として認識しつつある陽向は、意識を覚醒させるのが遅れた。そしてその遅れが致命的な状況を生み出してしまう。

 陽向が蒼依の存在に気付いたのとほぼ同時、ベッドサイドがわずかに沈んだ。蒼依が既に枕元に立っていて、ベッドに体重を掛けている証拠である。


(ま、待て待て待て、なんだこの状況? ヤバイ、起きなきゃ――いや待て。蒼依はいま、ベッドサイドに体重を掛けている。それはつまり――)


 蒼依の身体の一部が、ベッドの隅っこに乗っている、ということだ。

 そして、ベッドが沈み込んでいるのは陽向の顔の側。

 そこから想定される可能性は二つ。


 蒼依がベッドサイドに手をついて、陽向の顔を覗き込んでいる可能性。そしてもう一つは、顔の横に膝をついて、陽向にスカートの奥を晒している可能性。


 ……いや、冷静に考えて後者はない。

 というか、さすがにそこまでの変態ではないはずだ。


(いやしかし、蒼依は意外と変態さん疑惑がある。いまこの瞬間、僕がうっすらと目を開ければ、蒼依のスカートの中が見えるという可能性も零ではない)


 だが相手は蒼依だ。陽向の思考を読み切って、いままさに目を開こうとしている陽向を観察しているかもしれない。というか、その可能性の方が断然高い。

 ここは目を開けたら負けだ。


「……陽向くんの寝顔、可愛いなぁ」


(って、なに普通に人の寝顔を観察してるんだよ!?)


 狸寝入りとはいえ、同い年の女の子に寝顔を一方的に見られている。あまりの恥ずかしさに硬直していると、陽向の眠っているベッドの手前が更に沈み込んだ。

 それも今度は顔の横だけではなく、足の方も沈み込む。


(なんだ、なにをするつもりだ?)


 蒼依がベッドに這い上がってきたのは明白だ。続けて手前の足下も沈み込んで、続いて奥側の顔の横と足下も沈み込む。

 同時に、ふわりと甘い香りが陽向の鼻をついた。


 さきほどの位置関係から考えて、いま蒼依は陽向に覆い被さっている。陽向の目の前に蒼依の顔があることは明白で、ここで目を開ければ狸寝入りだったとバレかねない。


 そしたら絶対にからかわれる。

 数多くのラブコメなシーンを書いてきた陽向には分かる。ここで目を開けたら『なにを期待して寝たふりをしていたの?』としばらくからかわれるヤツだ。

 絶対に目を開けるわけにはいかない。


 だが、目を開けなくては状況が分からない。僕は一体なにをされてしまうのかと陽向がドキドキしていると、頬にさらりとなにか――おそらくは蒼依の髪が触れた。

 蒼依の顔が、ゆっくりと陽向に近付いてきている。


(まさか……キス? やばい、早く目を開けないと――いや、違う。これは罠だ。僕が本当に寝ているか試しているんだ。ここで目を開けたら思うつぼ、騙されないぞ)


 絶対に目を開けてなるものかと、陽向は寝たふりを続ける。

 動かず、目をぎゅっと瞑ったりもしない。あくまで自然に――そして、呼吸は腹式呼吸で、ゆっくりと。これが狸寝入りを完璧にこなすコツである。


(これで僕が狸寝入りだとは分からない。寝たふりをして――なんて、僕をからかうことは出来ないぞ。さぁ、どうする、蒼依!)


 次の瞬間、陽向の首元に蒼依の柔らかな頬が押しつけられた。


「スンスン……ふわぁ……陽向くんの匂いだぁ~」


 陽向が予想していたのとは斜め上の囁き声が聞こえてきた。


(……え? 匂い? なにを、言っているんだ……?)


 そうして戸惑う陽向の耳元で、女の子の吐息だけが響く。


(なんだこれ? え、ホントになんだこれ。僕をからかうつもりだったんじゃないの? え、普通に僕の匂いを嗅ぎに来ただけ? って、普通に匂いを嗅ぎに来るってなんだ!?)


「くんくん。すー、はぁ……えへへ」


(なんか変態っぽいのに可愛い。というか、匂い匂い言われたらなんか気になってきた。蒼依もむちゃくちゃ良い匂いがするんだけど、え、これ、蒼依の匂い、なのか)


 すぐ目の前に蒼依という愛らしい女の子がいる。その事実に頭が真っ白になって、どうすればいいのか分からなくなる。

 その次の瞬間――


「ごめんね、陽向くん」


 耳元で苦悩に満ちた声が響いた。

 陽向がその言葉の意味を考えるより早く、蒼依は陽向から身を離した。そうしてベッドから降り立って、ほどなくカチャリと再び扉から音が鳴る。

 たっぷり十秒ほど数え、物音がしないことを確認した陽向は身を起こした。


 カーテンの隙間から差し込む朝日に照らされた薄暗い部屋。そこに蒼依の姿はなく、ほのかに香る甘い匂いだけが、彼女がこの部屋にいた証拠として残っていた。


「……なんだよ、ごめんって。狸寝入りがバレたわけじゃ……ないよな?」


 考えても分からない。

 そもそも、彼女の正体からして謎ばかりだ。

 物語のヒロインがリアルに顕現するなんてあり得ない。蒼依は沙月に雇われた女の子で、報酬のために陽向に尽くしている社畜かなにかだと思っていた。


 だけど、報酬目当てで、あんなに親しく出来るものだろうか?

 考えても分からない。

 だけど、分かっていることもある。

 それは――


「蒼依は変態さんだな」


 眠っている男の部屋に忍び込み、その匂いを嗅いで立ち去っていく女子高生。言い訳のしようもなく変態さんに違いないと、陽向は蒼依が出て行った扉を眺めて苦笑いを浮かべた。

 

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