エピソード 1ー1

 夕日が地平線へと沈み、青空が真っ赤に染まっていく。そのほんの数分だけ、空に広がる昼と夜の境界線が幻想的な紫色へと染まることがある。

 一日で最も美しいと言われる魔法の時間マジックアワー

 何処かの公園にたたずむ子供の陽向が、同じくらい小さな女の子が向かい合っていた。


「姫ちゃん、もう帰っちゃうの?」

「……うん。日が暮れるまでには帰るってママとの約束なの。だから、もう行かなきゃ」


 真っ赤な夕日は刻一刻と地平線の彼方へと沈み、いまにも魔法が解(と)けようとしている。

 少女と別れたくなくて、だけど無理を押して別れを言いに来てくれた少女を引き止めることも出来なくて、陽向はきゅっと拳を握り締めた。


「またすぐに会える、よね?」

「ごめんね。私の家は海外だから簡単には会いに来れないの。……だけど、いつかきっと、夢を叶えて陽向くんに会いに来るよ。だから……だから、それまで待ってくれる?」

「……うん。待ってる。僕もそれまでに夢を叶えるよ。だから、そのときは――」


 陽向が約束の言葉を口にする。

 それを聞いた女の子は勝ち気な笑顔ではにかんで、陽向の頬にキスをした。




 頬とはいえ、女の子にキスをされた。

 その衝撃に飛び起きると、見慣れた部屋の内装が視界に広がった。陽向はそれでようやく、さきほどの光景が夢だったのだと理解した。


「……そうか。昨日、姫を名乗る女の子が押しかけてきて、それで……~~~っ」


 彼女が姫だと信じた訳じゃない。信じていない、はずだ。なのに自分が物語の主人公になって、姫と約束を交わすシーンの夢を見た。


 いくらなんでも安直すぎじゃないかと身悶える。

 しかも、陽向が書いたシーンとはところどころ内容が異なる。姫は積極的な女の子だが、さすがに小学生低学年で、再会を誓って頬にキスをするなんて書いた記憶はない。


(内容が微妙に違うのは夢だから当然として……あのキスは僕の願望、なのか? だとしても、なんでヒロインの顔が自称姫を幼くしたような顔なんだよ)


 夢の中の相手は自称姫を幼くしたような顔をしていた。それを陽向はヒロインの姫だと認識していたが、目が覚めればそれが不自然だと分かる。


 なぜなら、陽向が書いたのはWEB小説で、挿絵なんてものは存在していない。描写にある髪や瞳の色が同じでも、顔が自称姫と同じはずはないのだ。

 むろん、自称姫が本当に物語から具現化したのなら話は別だが、それは信じていない。

 つまり――


(僕は夢に見ちゃうくらい、自称姫とのラブコメを期待している、と。~~~っ)


 あまりの恥ずかしさにベッドの上を転げ回る。ごろごろごろごろと転がって、ひとしきり身悶えた陽向はようやく落ち着きを取り戻した。


 陽向は顔を洗ってからリビングへと向かう。

 いつもは誰もいない薄暗いリビング。そこには明かりが付いていて、扉を開けるなり美味しそうなお味噌汁の匂いが漂ってきた。


 視線を向ければ、エプロン姿の姫が台所に立っていた。彼女はなにがそんなに楽しいのか、ウィスパーボイスで歌を歌いながらお鍋を掻き混ぜている。

 それこそラブコメの主人公にでもならなければお目にかかれないような光景に、陽向は思わず声を掛けるのも忘れて見惚れてしまう。

 ほどなく、姫が肩越しに反り返るように振り返り、陽向の姿を見つけてふわりと微笑んだ。


「陽向くんだ。おはよぅ~」


 透明感のあるウィスパーボイスはどこへやら、彼女は甘ったるい声を上げた。可愛い声だと思うと同時に、もう少しだけ歌を聴いていたかったという寂しさを抱く。


「陽向くん?」

「あ、あぁ、おはよう。もしかして、朝ご飯を作ってくれてるのか?」

「うん。冷蔵庫の材料、勝手に使わせてもらってるよ~」

「あぁうん、それはいいんだけど……」


 姫との夢を見たせいか、自分が本当にラブコメの主人公になったような錯覚を抱き、陽向はなんとも気恥ずかしい思いをする。

 そうして言葉につまっていると、姫が片目を細めてにやっと笑った。


「どうしたの、ぼーっとして。エプロン姿を見て、私を襲いたくなった?」

「んな訳あるか」

「ダメだよ、いまは火を使ってるから。襲うなら後からにしてね?」

「だから襲わないって言ってるだろっ」

「うん、分かってる。私が同意してるから襲うことにはならないよね」

「人の話を聞けぇっ!」


 思わず声を荒らげるが、姫はクスクスと笑っている。

 自分がからかわれていることに気付いた陽向は口をへの字にする。


「まったく……なにか手伝うことはあるか?」

「いいよいいよ。住まわせてもらう代わりに、炊事洗濯は全部私がするって約束だったでしょ? 陽向くんは席に座って、私の後ろ姿に見惚れてていいよ?」


 自意識過剰ともとれる発言だが、台所に立つ彼女は愛らしい。たしかに後ろ姿を眺めているだけでも時間は潰せそうだが、陽向は真顔で首を横に振った。


「さすがに任せっきりって訳にはいかないだろ。手伝いくらいはするよ」

「いいって言ってるのに。……でも、そう言ってくれるのは嬉しいよ。それじゃ取り皿を出して、それからベッドメイクをお願い」

「取り皿は分かるけど、ベッドメイク?」

「メインディッシュは、わ た し」

「……またベタな挑発を。いくらなんでもアホっぽいぞ」


 自称姫の仕草は基本的に可愛い。陽向をからかうセリフだって腹立たしいことに可愛いと思っていたが、いまのセリフはベタすぎる。

 そう思って呆れていると――


「ひどいなぁ、陽向くんが書いた小説にあるセリフなのに」


 姫が無自覚に特大カウンターを放ってきた。

 陽向はピシリと固まって、それから記憶を探るように視線を彷徨わせる。結果――なにか思い当たるシーンがあったのだろう。陽向は膝からくずおれて、そのまま四つん這いになった。


「え、ちょっと、陽向くん、どうしたの?」

「僕は……僕はいま、僕の小説を馬鹿にした人達の気持ちを痛感した」


 かつて、陽向の小説が面白くないと感想で批難した人達がいた。だが面白いかどうかなんて人それぞれで、だからそんなことを報告しないで欲しいと当時の陽向は思っていた。

 なのに、客観的な立場になった陽向は、自分で作ったやりとりを鼻で笑ってしまった。


「やっぱり、僕の書いた小説は面白くなかったんだ……」

「――そんなことない!」


 陽向の呟きを姫が真っ向から否定した。穏やかな彼女のイメージからは想像できない剣幕に、陽向は驚いて顔を上げる。彼女は眉を吊り上げて怒っていた。


「私は陽向くんの書いた小説が好きだよ。だから面白くないなんて言わないで!」

「でも、感想が荒れるくらい否定されたのは事実だ。それに、さっきのは僕もないと思う。客観的に見せられて、それが良く分かったんだ」

「違うよ。陽向くんの小説の感想が荒れたのは……」


 姫がぽつりと呟く。

 陽向が四つん這いから復帰して立ち上がると、陽向を見つめる彼女はいまにも泣きそうな顔で、なにかを言おうと口を開いたり閉じたりを繰り返していた。


「荒れたのは、なんだよ?」

「……うぅん、なんでもない」

「なんでもないように聞こえないんだが……?」


 続きを促してみるが、姫は俯いて口を閉ざしてしまう。

 良く分からないが、彼女には、感想が荒れる理由に心当たりがあるのかもしれない。


 もっとも、ろくな理由ではないだろう。陽向自身もたったいま、自分の小説が面白くなかったと自覚したところだ。

 それを無理に聞き出しても空気が悪くなるだけだろうと引き下がる。だが、姫はなにやら落ち込んでしまっていて、それを見た陽向は溜め息をついた。


「まぁ……僕の小説が未熟なのは前から分かってたことだ」

「そんなこと、ないよ」

「あるんだよ。それに、だからこそ、キミはここに来たんだろ?」

「……え?」


 姫が戸惑いと共に顔を上げる。

 そんな彼女に向かって、陽向は出来るだけ穏やかに笑いかけた。


「キミが作中のシチュエーションを再現して、僕の小説にリアリティが出るように手伝ってくれるんだろ? だったら、別に問題ないじゃないか」

「え、陽向くん、それって……」


 見る見る彼女の顔が喜びに満ちていく。

 だから陽向は慌てて「勘違いするなよ」と釘を刺す。


「以前みたいに小説を書く気はないからな。ただ……その、なんだ。とにかく、おまえが落ち込む必要はないだろ?」


 理屈が通っていない不器用な慰め。それを聞いた彼女はキョトンと目を瞬いて、それから目元に浮かんだ涙を指で拭って無邪気に微笑んだ。


「陽向くん、ありがとう」

「……おう、気にするな」


 ぶっきらぼうに言い放ち、クルリと背を向ける。


「陽向くん?」

「床を触ったから手を洗ってくる」


 陽向は足早にリビングを後にして、そのまま洗面所へと飛び込んだ。


「~~~っ。あぁ、ちくしょう。やっぱり僕はラブコメの描写が下手だったんだ!」


 鏡に向かって思わず泣き言を口にする。

 だが、それは決してネガティブな理由から来た言葉ではない。その証拠に、鏡に映る彼の顔は真っ赤に染まっていた。


「僕が書いたラブコメを再現した彼女より、素の彼女の方がずっと可愛いじゃないか……っ」


 涙を拭って微笑む彼女の顔を思い浮かべ、陽向はたまらず水道の水を頭から被った。




 その後、陽向は顔を洗って――というか流水で火照った頬を冷やしてリビングへと戻る。

 朝食の準備を手伝って、それが終わったら姫と向かい合ってテーブル席に着く。朝食はお味噌汁に干物の焼き魚、それに卵焼きとご飯という和食の定番だった。


 それらの食材は家になかったはずだが、どうやら近くのスーパーで買ってきたようだ。

 一人暮らしも同然だった陽向にとってはとても懐かしい。なにより、どれもそつなく作られていて、とても美味しそうな匂いがしている。


「それじゃ――召し上がれ」


 姫は両手を広げてふわりと微笑む。まるで抱きしめて欲しいとおねだりしているような仕草に、陽向は思わず吸い寄せられそうになった。

 だがすぐに我に返って、作ってもらったご飯を冷めないうちに味わおうと頭を振る。


「いただきます……っ、美味しいっ!」


 卵焼きを口にした陽向は目を見張った。

 卵焼きは誰でも作れるけれど、技量の影響が非常に大きな料理とも言える。焼きすぎればすぐに焦げ目が付いてパサパサになるし、とろりと半熟で巻くのは非常に難しい。

 だけど姫の焼いた卵焼きは柔らかく、歯で噛み切るとトロリと半熟の卵が染み出してくる。


「美味しい、凄く美味しいよ」

「あ、ありがとう。でも……少し大げさじゃない?」

「大げさなんかじゃないぞ。自分じゃこんな半熟の卵焼きは作れないし、市販の卵焼きは冷めてて、暖めると半熟じゃなくなるからな」

「あ、たしかに。この焼き加減で温かい卵焼きって食べる機会は少ないよね~」


 もちろん何処かの店に行けば食べることは可能だが、学生の陽向にそのような機会はあまりない。温かい半熟の卵焼きを食べるのは本当に久しぶりだった。


「うん、味噌汁も丁度の味付けだし、キミは料理が上手なんだな」

「ふふっ、陽向くんにそう言ってもらえると嬉しいなぁ」


 可愛くて優しくて料理も上手。これで自分が姫だなんて言わなければ速攻で惚れていたかもしれない。不意に残念系ヒロインというワードが脳裏をよぎった。

 だが、ヒロインとしては難ありでも、同居人としてはかなりの高評価だ。


「実はあんまり期待してなかったんだけど、これは嬉しい誤算だな」

「いつか陽向くんに食べてもらおうと思って頑張って覚えたんだよ?」


 いじらしい彼女の言葉に、けれど陽向は苦笑いを浮かべた。

 陽向のために以前から料理の練習をしていたと彼女は言ったが、彼女が物語の姫として具現化したのなら、一体いつ練習したのかという話である。

 もっとも、それを追及していたらご飯が冷めてしまうとその言葉をスルーする。

 陽向はわりと餌付けされ掛かっていた。


「ところで、陽向くん。私が暮らす部屋はどうしたらいいかな? 私としては、押しかけてきた身だし、リビングで寝泊まりしても構わないんだけど」

「さすがにそんなわけに行くか。このまま姉さんの部屋でもいいけど……どうするかな」


 昨日はいきなりだったので沙月の部屋に泊まってもらった。

 月単位でしか帰ってこない上に姫の同居を認めたのは沙月なので、このまま姫が部屋を使っていても怒ったりはしないだろう。

 だが、この家にはちょうど空き部屋がある。


(とはいえ、彼女がいつまで家に居るか分からないんだよな)


 なにしろ、彼女が姫じゃないと分かったら出て行ってもらう約束だ。そして、彼女が物語のヒロインで魔法を使えるなんてトンデモ設定が事実のはずはない。

 ゆえに短い付き合いで、沙月の部屋で十分のはずだ。

 だけど――


「空き部屋を使ってもらおうか」


 陽向はなんとなくそちらの選択をした。


「空き部屋……?」

「ああ、二階の奥に空き部屋がある。多少の掃除は必要だから、嫌なら――」

「その部屋がいいっ!」


 断られるとはもちろん思っていなかったが、想像以上の食いつきに驚く。


「……分かった。まぁときどきは掃除してるから、そんなに手間じゃないはずだよ」

「ありがとう! それと、陽向くんに少しお願いがあるんだけど」

「なんだよ? 小説を書けってお願いなら聞けないぞ?」

「それは無理に迫ったりしないって言ったでしょ」

「じゃあなんだ?」

「街を少し案内してくれないかな? 持って来た荷物は最低限だから、いくつか買い物をしたいって思ってるんだけど」

「街の案内か……明日から学校だから色々用意があるんだよなぁ」

「食品関係のお店を教えてくれたら、夕食はもっと美味しくなるよ?」

「……し、仕方ないなぁ」


 さきほど、陽向は餌付けされ掛けていると言ったがそれは間違いだ。

 陽向は既に餌付けされていた。

 

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