第16章 春

第56話 進級前

 三月も終盤になり、僕たちは春休みに入った。寒さはまだ厳しいけれど、少しずつ日差しの暖かさも感じるようになり、春の空を染める桃色の夕日も綺麗だった。もうじき僕らは中学二年生になる。進級するということが、何だか僕の侘しい人生には不釣り合いな、過分な出来事のように思えた。ずっと永遠にこのまま、中学一年生でいたいような気もする。去年、中学校に上がる前も、僕は自分が中学生になるということに違和感があった。僕はいつまでも小学生の幼い子供であり続けたい、そんな甘えが胸に巣食っていた。大人になること、未知の世界へ踏み出していかなければならないことが恐かった。ずっとこのままでいられたらいいのに。六年生のころはずっとそんな気持ちで過ごしていた。

 アリスはまだ空種を一つしか落としていない。本当の継承の種を宿すのはもうしばらく先なんだろう。今回は何事もなく無事に進級できそうだけれど、そもそも僕らは本当に継承の習わしから外れ、長生きすることになるんだろうか。いくら蓮兄さんが僕らの身代わりになって習わしの呪いを引き受けると言っても、そんな前代未聞のことが上手くいくのかどうかなんて誰にも分からない。最悪、僕もアリスも蓮兄さんも、みんな共倒れになる可能性だってあるのだ。……いっそ、そうなってくれても、僕は構わないのだけれど……。涙が出るほど、嬉しいのだけれど……。

 僕は頭を振って考えることを止め、付き人の日誌を書いた。


 『中学一年生もとうとう終わり、春休みに入った。

 アリスはまだ空種を一つしか落とさないけれど、本物の継承の種はいつ落とすんだろう。ふとした瞬間に、そんなことを考えてしまう。

 僕は本当にこのまま二年生になり、三年生になり、受験をして、高校生になり、大人になるんだろうか。何だか信じられない。

 蓮兄さんと共に、僕もいけたらいいのに。そうなれば、罪悪感からも寂しさからも、みんな解放されるのに。

 生きる罪悪感に耐えながら、僕は生きていけるんだろうか。自信がない。生きることが恐い。』


 僕は自分の記した文章を見て、またこんなつまらないことを書いてしまったと後悔した。いつでもそうだった。僕は虚しいことばかりを書いて、読む人の利益になることなんてちっとも書けない。うんざりした溜め息と共に日誌を閉じた。

 窓の外はまだ明るくて空は桃色に燃えている。僕は付き人の部屋を出て二つの鍵を掛け、下に下りていった。ちょうどアリスが駆けてきて僕の腕を取り、「一緒に蓮お兄さんのお部屋に行きましょう」と誘うので、僕は頷いてアリスに引っ張られていった。アリスや蓮兄さんに誘われるなら、僕だって西棟に行くのは恐くない。本来なら西棟は、僕にとって、『行ってはならない神聖な場所』なんだから。

 蓮兄さんは毎日熱心にピアノを弾き続け、その音色は古めかしい屋敷の床板や壁、硝子窓や調度品にまで響いた。時折、蓮兄さんのピアノの音色を求めて遠くからお客さんが来たり、蓮兄さんがお客さんのもとへ行ったりした。僕は全然知らなかったのだけれど、蓮兄さんは自ら曲を書いたり、知り合いのアーティストのレコーディングに参加したり、立派にピアノの奏者として身を立てているのだった。もっとも、本格的に商業活動を始めたのは帰国してからで、蓮兄さんのピアノの音色を惜しんだゆかりある人たちが、わざわざ海外から誘いを掛けてくることもあった。蓮兄さんは自分の名前を伏せることを条件に、ピアノの音色を披露するのだった。

 僕とアリスが蓮兄さんの部屋に入ると、蓮兄さんは炎で燃やしたような真剣な眼差しで、激しく身を揺らして鍵盤を叩いていた。曲は終盤だったようで、だんだん曲調は緩やかになっていき、やがて余韻を残して終わった。僕とアリスは二人して拍手を送った。

「やぁ、二人とも。ありがとう」

 蓮兄さんは僕らを見ると、すぐに穏やかな顔をして微笑んだ。

「二人とも、明日は里奈さんと一緒にお花見に行くんだよね? 楽しんで行っておいで」

 そうなのだ。明日、僕らは里奈さんと一緒に桜を見に行く。アリスはそれで興奮して、一日中落ち着かないのだった。

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