第57話 お花見

 三月最後の日曜日はよく晴れて、風は冷たいながら日差しは暖かかった。

 思えばアリスは継承の種を呑んで朝永屋敷に来てからずっと籠りっきりで、こうして車に乗って出掛けるのは初めてだった。後ろの席で僕と並んで座り、白い頬を輝かせてわくわくと車窓の景色を眺め「お花見、楽しみね!」と、にこにこ笑って語り掛けてくる。

「二人とも、いいお天気で良かったね」

 運転席から里奈さんが言う。今日は敢えて里奈さんとアリスと僕と三人だけで出掛けている。屋敷にいると、いつも佳歩さんや蓮兄さん、時たま柊吾さんがいるときもあるけれど、とにかくじっくり三人だけで過ごすということが――特にアリスと過ごす時間がなくて残念だと里奈さんが言ってくれたので、佳歩さんや蓮兄さんとも相談して、今日のお花見を計画したのだった。本当は里奈さんとアリスと二人だけで出掛けてもらっても良かったのだけれど、アリスと付き人は離れない方がいいという佳歩さんや蓮兄さんのアドバイスもあって、僕も連れていってもらうことになった。ただし、僕はあくまでアリスの見守り役で、今日は余計な介入はしない。里奈さんとのんびり過ごしてもらう。里奈さんの車は快調に町中を走り、隣の市の大きな公園を目指した。

 陽気に誘われて多くの人が公園に来ていた。公園と言っても小高い山を利用して作られた起伏の多いところで、念入りに散策をしようと思うと、急な斜面や階段で意外に体力を使う。公園の入り口には芝生の広場があり、その広場を取り囲むようにして、所狭しと躑躅を植えた西旗津山の斜面が扇状に広がっている。ゴールデンウィークになるとこの躑躅が一斉に花開き、扇状の斜面はモザイク画のように鮮やかに染まる。ちなみに、この斜面の上には桜並木やもみじもあり、一年中いつ来ても植物の営みを楽しむことができる。僕たちの目当ては桜の木。窓から見える西旗津山を見ると、ニュースで言っていた通り本格的な開花はまだ先のようで、山は冬枯れの名残が色濃かった。

 西旗津山公園に着くと、アリスはさっそく里奈さんの腕を掴んで、「早く行こうよ!」と急き立てた。里奈さんは笑いながら車の鍵を掛けて、「待って。待ってったら、アリスちゃん」そう言ってアリスに引っ張られていった。保育園で小さな子と遊び慣れているせいか、アリスのマイペースにも特別気を悪くする風でもなく、アリスのなすがまま付き合ってくれた。僕もその後から付いていく。

 二人は姉妹のように手を繋いで、まだ寂しい細々とした茶色の枝を見上げながら、「ちょっとお花見には早かったかなぁ。でも、ちらほら咲いてるね」と言って、西旗津山の遊歩道を上っていく。傾斜がきつく、部活で体を動かしている僕でも膝が重く息が上がった。

 坂を上り切ると遊歩道の脇に並んだ桜の木々が間近に迫り、蕾の色まではっきり見えた。桜の木の向こう側はもう躑躅の植わった崖で、木の向こうに旗津の市街が一望できる。もっと上まで行くと展望台があるから広い景色を見渡せるのだけれど、展望台までの坂道はここよりずっと傾斜がきつく、上るのがつらい。アリスと里奈さんが行くなら僕も付いていくけれど、二人はどうするんだろう。

 遊歩道沿いに立ち並ぶ桜と桜の間には提灯がずらりと連なって花見客を出迎える。今は昼だから点いていないけれど、夜になると明々と灯が点って桜を染め上げる。

 アリスと里奈さんは目の前に迫り出した桜の枝を見て、「これはもうすぐ咲きそう。これはまだかなぁ」と、滴りそうな蕾を観察している。開花したものを見付けるとアリスはうっとりして硝子細工のような花弁を見つめた。

 周りのお客さんも陽光に打たれながら思い思いに散策を楽しんでいる。僕の心も何となく軽やかだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る