第55話 連弾

 小さいころからの戒めで決して立ち入ってはならないと言われていた西棟に、僕が足を踏み入れたのは正月二日のことだった。蓮兄さんが佳歩さんに根回しをして僕が西棟に入っても大丈夫なようにしてくれていた。

 広くて静謐な蓮兄さんの部屋には昔僕が使っていたグランドピアノがあって、少しも色褪せないまま厳めしい艶を放って佇んでいた。ピアノの椅子にはアリスが座っていたけれど、僕を見るなり満面の笑みを浮かべて腕にしがみついてきた。

「アリス、もう一度僕と一緒に弾いてみようか?」

 蓮兄さんにそう言われるとアリスは大きく頷いて僕の腕から離れ、ピアノの椅子に座り直した。蓮兄さんが寄り添うようにその傍らに立ってアリスと目線を合わせると、「いくよ、せーの」という掛け声で演奏を始めた。それは、小さいころ、僕も夢中になって練習したきらきらぼしの連弾だった。レッスンの時間以外は連弾の相手がいないからひたすら一人で低音側も高音側も練習して今でも弾ける自信があるけれど、自分から望んで封印したはずのピアノの音ときらきらぼしの旋律が、マグマのように熱い憧憬となって数年振りに僕の胸に舞い戻ってきた。

 蓮兄さんとアリスが弾いているのはピアノに慣れていないアリスに合わせた簡単なものだけれど、語り掛けるような優しい旋律が部屋中に響いて僕の骨の髄まで染みていった。一通り弾き終わると蓮兄さんとアリスは微笑み合った。

「綺麗な音色だったよ、アリス。またやろうね」

 蓮兄さんにそう言われるとアリスは弾むように頷いて席を立ち、「あなたの演奏も聴きたいわ」と言わんばかりに僕の腕をぐいぐいと引っ張った。蓮兄さんも鍵盤に手を置いたまま僕の方を真っ直ぐ見つめ、

「拓真君、僕はぜひ君とも連弾がしたい。お相手願えないかな」

 と言った。一度ピアノを辞めてしまった僕は再びピアノに触れることが恐かった。きっと手も上手く動かない。

 蓮兄さんは鍵盤に視線を落としながら言った。

「このピアノは昔よりもずっといい音がするよ。それは、拓真君がこのピアノを大事に弾いてくれたからだろうと思う。さぁおいで。ここに立ててある楽譜は君が使っていたものだよ。拓真君ならまだ弾けるよね」

「指が動くかどうか分からないけれど……」

 僕は蓮兄さんに促されるまま数年振りにピアノの椅子に座った。背筋に緊張が走る。鍵盤に指を添えてみると、恐れと懐かしさが洪水になって僕の胸を襲った。指を慣らすために少し弾いてみると、思った以上に大きな音が耳を劈いた。昔は何とも思わなかったのに、こんなに大きな音が鳴るのかと僕の心臓が思いの外驚いている。

「よさそうだね。行ける?」

 蓮兄さんの問い掛けに頷くと、僕らは息を合わせて一気に鍵盤を鳴らした。

 ピアノの鍵盤とはこんなに重いものだったんだろうか。置いてけぼりになりそうなたどたどしい僕の音を、蓮兄さんの軽やかな音が掬い上げて次の節へと連れていってくれる。指は動くけれど楽譜を見る余裕なんてないし、あやふやな感覚を頼りに演奏していくしかない。僕はもう自分が何を弾いているのかも分からないし、蓮兄さんの音も聞こえない。無音の中で闇雲に手を動かすことしか考えられなかった。

 二分ほどの短い演奏が終わるとようやく僕の耳に音が戻り、アリスの拍手が聞こえた。蓮兄さんが笑って僕の肩に手を置いた。

「お疲れ、拓真君。ブランクがあるのにこれだけ弾けるなんてさすがだね」

 僕は生きた心地がしなかった。

「もうピアノなんて弾くことないと思っていたのにな……」

「もったいないよ、こんなに綺麗に弾けるのに」

 僕は疲れて溜め息を吐くことしかできなかった。

「拓真君の演奏には心が籠っているよ。だからこのピアノにも情が移ったんだろうね」

 蓮兄さんはきらきらぼしの旋律を奏でながら言った。

「里奈さんが言ってたんだ。このピアノからは命の音がするってね」

 蓮兄さんは僕を見てにっこりと笑った。

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