第46話 目標

 私が妃本立へ帰ってきてから、アリスは毎晩のように私の部屋へ来た。初めて来たときホワイトボードを抱えていたので思わず「どうしてそんなものを持っているんだい?」と訊ねてしまったが、アリスになった彼女は発音することを忘れていて喋ることができないので、筆談のために持っていたのだ。彼女は私の腕を引っ張ってソファーに座らせ、自分も隣に座って、何かすらすらと書き出した。

『れんお兄さん、お帰りなさい。会えて嬉しいです』

 膝の上でそう書いて、私の顔をにっこりと見上げる。私も自然と頬が緩んで、血が繋がっていないとはいえ、肉親としての親しみが湧いた。

「ただいま、アリス。僕も君に会えて嬉しいよ」

 アリスはボードに色々なことを書いて屋敷の様子を教えてくれた。この西棟には私の父が臥せっているので、障りのないように、拓真君は西棟への立ち入りを禁止されているとのことだった。佳歩さんの許しがないと、拓真君は絶対に西棟へは立ち入らないらしい。幼い頃の私にも佳歩さんに逆らうなどという考えは微塵も起こらなかったが、どうやら拓真君も似たようなものらしい。佳歩さんに従っていればまず間違いは起こらない、そんな安堵感がこの屋敷の人間には根付いているのだった。ただし、佳歩さんは使用人としてこの屋敷に雇われている身なので、雇い主である我々家人の要望も割合素直に聞き入れてくれた。

「拓真君が西棟に来られるように僕から佳歩さんにお願いしておくよ。その方がアリスも寂しくないでしょ?」

 私からのその願いをあえて佳歩さんが拒否するとも思えない。私の言葉を聞くと、アリスは安堵の笑みを浮かべて頷いた。そうしてまた視線を下ろし、ボードに何か書いていった。

『れんお兄さんはほんとうにわたしの種をのむの?』

 そう書いて、柔らかい眉の中に冷たい深刻さを潜めてじっとボードを見た。私は正直に頷いた。

「本当だよ」

 そう答えると、彼女は文字を消し、新しい字を書いていった。

『他のアリスはそうじゃなかったのに、どうしてわたしだけ笑ったり泣いたりするんだろう』

『わたしの生んだ種でれんお兄さんが死んじゃうのはいやだ。悲しい、つらい』

 彼女は立て続けにそう書いた。

「アリスが悪いんじゃないんだよ。元はと言えば僕の父さんがこんな習わしを生み出すからいけないんだ。こんな習わしさえなければ、誰もつらい目になんて遭わなかった」

 私の言葉を聞くと、アリスは懸命にペンを動かし、飾り気のない気持ちを次から次へとボードへ書いていった。

『わたしは自分を消すことのできる種をのんだとき、本当に救われた気がした』

『生きることがこわかった。今までのアリスもみんな同じ。生きることがつらかった』

『それなのに、たくまお兄さんやかほさんが一緒にいてくれるようになって、生きることがこわくなくなった。みんなと一緒にいるのが楽しいし、幸せ』

 傍から見ていても屋敷で過ごすアリスは幸せそうだった。拓真君と一緒にいるときはいつも笑っているし、佳歩さんの前では安堵の表情を浮かべている。

 アリスは私の横ではにかんで、突然こんなことを書いた。

『わたしも自分の口で、れんお兄さんって呼びたい。今は喋れないけど、一度だけでいいから、自分の口で、れんお兄さんって呼びたい』

 彼女はそう記すと、私の顔を見上げ、桃色の唇を僅かに開き、「あ……あ……」と、掠れた声を出した。会話での意思疎通を手放してしまった彼女は、舌を動かすことも忘れてしまっているようだった。きっと『蓮お兄さん』と言いたかったんだろう。彼女は恥ずかしそうに俯いてボードにこう書いた。

『練習したらきっと言えるようになるから、わたし、がんばるね』

 生きることに前向きではない『アリス』という存在になりながら、なぜこの子はこんなに笑顔で健気に頑張ると言えるのだろう。

「アリスに蓮お兄さんって呼んでもらうの、楽しみにしてるよ」

 私がそう言葉を掛けると、アリスは太陽のように明るく頷いた。

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