第13章 弟妹
第45話 心を預けて
幼いころに抱いていた妃本立の印象と大人になって帰ってきてから抱いた妃本立の印象は、懐かしく同調する部分もあればこんな一面もあったのかと新鮮に思う部分もあった。自室の西窓から臨む杉森の景色は昔と変わらず黒い陰影を抱き、私の頭の底に眠っていた幼いままの思い出を揺り起こした。屋敷に染み込む匂いも変わらない。六歳で妃本立を離れ、それから十九年が経ったので、屋敷も十九年分古ぼけていなければならないが、佳歩さんが念入りに手入れをしていたんだろう。十九年分のほつれを見つけることはなかった。
私の部屋に戻ってきたグランドピアノは一時東棟にあり、三歳から小学三年生までピアノを習っていた拓真君が使っていたとのことだった。私もまた子供のころに寝食を忘れてこのピアノに触れたが、そのころより深みが増したように感じるのは、単に月日を重ねたというだけでなく、あの繊細な拓真君が心を重ね、情を注いで鍵盤に触れていたからでもあるんだろう。幼い拓真君が曲の流れに身を任せ、我を忘れて弾き入る姿が目に浮かぶ。 残念ながら学校の音楽発表会でピアノの伴奏を任されたことが重圧となり、もう伴奏者に選ばれることのないよう、ピアノを習うことも辞めてしまったらしかった。
ピアノの前に立ち、適当に鍵盤を押すと、小動物の勢い付いた跳躍のように、ぴん、と音が跳ねた。これが里奈さんの言っていた命の音というものなのだろうか。私はふいに目元が落ち着かなくなり、机に置きっ放なしにしていた黒淵眼鏡を掛けた。たった一枚レンズが被さるだけで、無防備な剥き出しの心を守れるような気がした。
昨日、酔い潰れて一晩ここに泊まった柊吾は、仕事があるからと言って朝食も採らずに慌てて屋敷を出ていった。拓真君とアリスは今日終業式で、明日からは冬休み。里奈さんは時間管理のできるしっかりした人のようだから、今日も綺麗に身支度を整えてちゃんと仕事に行ったんだろう。佳歩さんは昼食の準備をしている。暇を持て余しているのは私だけた。周囲が回っているのに自分だけ立ち止まっているのは惨めだった。
もう一度、宛てもなく鍵盤を押す。もう一音押す。興に乗って、指が勝手に動いていく。鍵盤に乗せていたのは右手だけだったのに、いつの間にか左手も踊るように鍵盤を行き来する。血が沸き立つような思いがした。確かに私は今、生きているらしいということが、現実味を持って感じられた。呼吸をしていていいのだ。私はこのままでいいのだ。そんな刹那的な救いが私の胸に流れた。
ふと、ピアノの音に混じって扉をノックする音が聞こえ、「蓮様」と、佳歩さんが顔を出した。
「もしよろしければ、少しお手伝いいただけないでしょうか」
その佳歩さんの申し出は暇人の私が切望していたものだった。佳歩さんの頼み事は玉ねぎの皮剥きと皿を並べることだけだったが、それすら私には喜ばしい労働だった。
「佳歩さん、父さんはどうしてる?」
ピアノの鍵盤に蓋をしながら私はそう訊ねた。
「いつも通り、お元気にされていますよ」
父は寝たきりながら意識はあり、僅かながら意思疎通もできるようだった。もう二十五年以上寝たきりの状態なので、体力も衰え、もはやいつ他界してもおかしくはない。私は自分でも恐ろしいほど、父に対しては何の同情も湧かなかった。もし父が健康であったなら、この習わしの始末も父自身で担えたのかもしれない。
「…………」
私は一つ溜め息を落として掛けていた眼鏡を外し、それを心共々置き去りにするように机の上に置き、西棟の部屋を出た。
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