第36話 継承者

 蓮兄さんが帰ってくる日、僕は一日中落ち着かなかった。里奈さんや柊吾さんにも蓮兄さんのことを伝えたけれど、帰ってくるのが夜八時を回ると聞いて、会うのはまた今度ということになった。アリスは僕の部屋で本を捲っている。ぼんやり窓の外を眺めているうちに日は暮れた。

 夕食後、佳歩さんは駅まで蓮兄さんを迎えに行った。僕とアリスは応接室で帰りを待った。蓮兄さんの乗った特急が停車駅に着くのは八時過ぎ。そこから車に乗って妃本立ひもとたちまで戻ってくると、三十分は掛かるだろうか。今か今かと待っていると、時計の秒針の音ももどかしい。

 二人が帰ってきたのは九時前だった。玄関からがたがた物音がしたと思うと佳歩さんが応接室に顔を出して、

「蓮様がお戻りになられましたよ」

 と、扉を大きく開き、後ろから付いてくる人影を招き入れた。

 僕とアリスは食い入るように見つめた。佳歩さんの背後から脇をすり抜けて入ってきたのは、すらりと背の高い、色白の男の人だった。毛先の柔らかそうな茶色の髪。潤んだ瞳。黒淵眼鏡のレンズ越しに僕たちを見つめ、微笑んでいる。頬も顎も喉元も手の甲も、僕なんかよりずっと骨が細く、肌が滑らかだった。成人しているのにまるで少年のように見える。美しい人だった。

「二人とも、初めまして。朝永蓮です」

 湖水のように静かな声が頭の中を流れていった。胸がどきどきした。

 佳歩さんは僕たちに頭を下げて応接室を出ていった。

 蓮兄さんは棒立ちになった僕の目の前に来て眼鏡を外し、透き通った瑞々しい瞳を露にして微笑んだ。

「拓真君、やっと会えたね。それに、アリス。会えて嬉しいよ」

 アリスは僕の背後に半分体を隠し、蓮兄さんをちらちら見ながらはにかんでいる。

 蓮兄さんが帰ってきたら「お帰りなさい」と言うつもりだったのに、何も言葉が出てこない。ただ痺れたように蓮兄さんに釘付けになった。

「拓真君、君にはもう一つ、名乗っておかなくちゃならない名前があるんだ」

 蓮兄さんは外した眼鏡を黒いダッフルコートのポケットに仕舞うと、眩しい光で真っ直ぐ射抜くように、僕の顔を見つめた。雪のように白い鼻梁が明るい眉間から緋色の唇に向かって麗しく流れている。

「君の誕生日に、『最後の種を待つ者』という奇妙な名前でメッセージを送ったのは、僕だよ」

「えっ」

 僕は絶句した。それと同時に激しく胸が動悸した。ただの緊張ではない。一つの強烈な予感が、僕の胸に走ったのだった。

「じゃあ……まさか……」

「そうだよ。君たち二人から継承の種を引き継ぐのは僕だ」

 僕は出鱈目に頭を振った。手首に妙な脈拍を感じる。アリスも僕の二の腕を痛いくらいに握った。

「そんなの嘘だ。どうして蓮兄さんが――」

「君にだってもう分かってるんだろう? 正真正銘、僕が次の継承者だよ」

 裕次郎さんは出会ってすぐに、僕を次の付き人だと予感していた。あれは、こういうことだったのだ。僕の付き人としての嗅覚が、蓮兄さんを次の継承者だと予感している。

 蓮兄さんは落ち着いて柔らかく笑った。

「ただし、付き人として継承するんじゃない。この習わしを終わらせるために継承するんだよ」

「……どういうことですか?」

「僕は君たち二人を死なせたくない。この呪われた習わしを生み出した僕の父――その血を受け継いだ僕が種を呑むことで、父の生み出した呪いは僕の体の中へ帰ってくる。アリスの習わしは終わる。君たち二人は助かるし、もう誰も犠牲になんてならない。そのために、僕はここへ帰ってきたんだよ」

 蓮兄さんの思わぬ告白に、僕は言葉を失った。

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