第37話 付き人の悲しみ

 その夜、僕は自分の部屋には戻らず、付き人の部屋に籠ってベッドに倒れ、枕に顔を押し当てて、不安と恐怖に呑み込まれた重苦しい心身を持て余した。

 僕自身も付き人を継承してからまだ二ヶ月しか経っていない。いつかは次の継承者の話も出るのだと分かってはいたけれど、こんなに早くはっきりと答えが出るなんて予想外だった。よりによってあの人が――蓮兄さんが次の継承者だなんて、思いもしなかった。

 僕が継承の種を引き継いだとき、裕次郎さんは泣きそうな笑顔を浮かべていた。僕は自分の寿命が縮まり、命の重さをほんの少し肩から下ろせたことで、前向きでほっとした気持ちになったのだけれど、裕次郎さんは僕が生きるはずだった長い寿命を惜しんで、ずいぶん苦しんだようだった。僕は自分の人生を惜しいとも思わなかったし、人から大切にされる理由もないと思っていた。だから、裕次郎さんがあんなに切なく僕に笑い掛けた意味が分からなかった。僕は浅はかだった。

 今度は僕が裕次郎さんの立場になって、蓮兄さんの大事な命を握ってしまうことになった。蓮兄さんとは知り合ったばかりだけれど、朝永の名前で繋がった大切な人だった。電話をもらったときに初めて聞いた湖水のような静かな声、ついさっき、初めて見た色白のすらりとした姿。あんなに透明で手が届かない人は僕の周りにいなかった。名前で繋がった僕の兄さんだなんて、信じられなかった。その人が、僕とアリスから種を継承してしまう。

「種を継承したら、蓮兄さんはどうなるんですか? 習わしが終わるのなら、助かるんですか?」

 そう訊ねると蓮兄さんは首を横に振った。

「助からないよ。僕は父の生み出したこの習わしを道連れにしてあの世へ行く」

 僕にとっては希望の光を奪われる悲しい宣告だったけれど、蓮兄さんは凛として動じなかった。

「僕は今までずいぶん好き勝手生きてきたし、人生はそれなりに楽しかった。だけど、今まで犠牲になった人たちのことを思うと、何の代償も払わないというわけにもいかない。僕の身一つで償えるものではないけれど、でも、このまま許されていいわけでもない。僕は朝永の血なんて絶えてしまった方がいいとも思っている。自分の血なんて一滴たりともこの世に残すつもりはない」

 決意を秘めた黒い瞳でそう吐露した。

「蓮兄さんがいなくなるなんて、僕は嫌だ」

 駄々っ子のように僕が言うと、蓮兄さんは困ったような笑顔で「ごめんね」と言った。僕はもう遠慮せず、ありのまま手厳しい我儘を言った。

「僕も、やっとつらい人生が終わると思ったのに。付き人の特権、蓮兄さんに取られちゃった」

 蓮兄さんも遠慮なく笑った。

「それを言われると返す言葉もないよ。みんな短命を望んでこの習わしに惹き込まれるのだからね。だけどこれ以上、罪のない人を朝永の血で死なせるわけにはいかないんだよ。ごめんね、拓真君」

「ずっと僕たちのそばにいてほしかった。やっと……やっと一人じゃないって思えるようになったのに……」

 蓮兄さんは少し膝を折って、僕に目線を合わせた。

「拓真君、この屋敷の子になってくれてありがとう。君とアリスに会えて、僕は本当に嬉しい。僕だって、今すぐにどうこうなるわけじゃない。君たちと一緒にいられる残りの時間を大切にしたいと思っている。これからよろしくね、拓真君」

 僕は目頭が熱くなるのを堪えながら頷いた。

 付き人の部屋には歴代の付き人の生き様と思いとが漂っている。みんな同じ役目を果たしてきたのだ。僕と同じ立場で、同じ役目を。

 僕は重い頭を持ち上げてベッドから下り、蓮兄さんを失う悲しみを日誌に記した。

『次の付き人が見つかった。僕は大切な人を失う悲しみを、初めて思い知ったような気がする。』

 それだけを書いて、日誌を閉じた。

 つらい。悲しい。恐い。どうして。

 そんな涙が、じんわりと浮かんだ。

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