第15話 裕次郎の日誌

 僕は付き人の部屋に籠って日誌を書いた。


 アリスのお墓があると聞いてお参りをしてきた。長くこの屋敷で暮らしてきたけれど、あんなお墓があるなんて知りもしなかった。僕のアリスも一緒にお参りをした。

 僕のアリスはよく笑う。言葉を発したりはしないけれど、人と会話をするのも嫌ではないようだ。

 表情豊かなアリスなんて、不思議だな、変わってるなと思う。この子は本当にアリスなんだろうか。僕が間違って種を渡してしまったんじゃないだろうか。そう勘ぐりたくなる。


 そう書いて、僕は日誌を閉じた。僕のアリスはアリスになった途端、表情が豊かになった。少なくとも僕にはそう見えた。学校でも無表情で誰とも喋らない、みんなから敬遠されるほど没交渉だったのに、種を呑んだ途端、幼い子のように疑いのない笑顔を見せ、甘えるようになった。アリスとは同い年なのに、妹ができたような感じがした。学校では相変わらず無表情だけれど、たまに誰かに話し掛けられると、にこりと微笑んだりした。アリスというのはそういうものなのだろか。

 僕は自分の日誌を閉じて立ち上がり、本棚の前に立った。歴代の付き人たちの日誌の中に、裕次郎さんの日誌もある。

 裕次郎さんは――あの人は、生前、アリスとどんな日常を送ってきたのだろう。僕が遠くから見てきた裕次郎さんのアリスは、本当はどんな子だったのだろう。

 僕は裕次郎さんの日誌に手を伸ばした。背表紙の頭を人差し指の先で押さえ、手前に引く。日誌は何のつかえもなくすとんと手のひらに収まった。椅子に座り、染み一つない日誌の表紙を見つめる。裕次郎さんが手に取り、日々のことを書き綴った日誌。そっと表紙を開くと、日誌の中に閉じ込められていた過去の空気がふわりと舞ったような気がした。

 裕次郎さんが付き人になったのは二年前の三月。まだ寒いころだ。あまり自分の気持ちを打ち明けることのなかった裕次郎さんらしく、最初のページは日付けとちょっとした一言が添えてあるくらいだった。


3月10日

 アリス、種を呑む。


3月11日

 特に変わりなし。


3月12日

 アリスになってから初の登校。見守る。


3月17日

 アリスが種を呑んでから一週間が経った。目線も滅多に合わず、人形のように表情も変えないが、私のことはとりあえず信頼してくれているようだ。

 私がぐずぐずしていると、彼女は立ち止まって振り返り、『何をしているの?』と言うように私を見て、私が来るのをじっと待っている。私が慌てて駆け寄ると、彼女は初めて笑った。年相応の、可憐な微笑みだった。

 この子は人形ではなく、私たちと同じように生きているのだと、ふと思い出した。彼女の微笑みの中に、生命の躍動というものを見てしまったのだ。

 歴代の付き人たちが日誌に書き記していたのはこういうことだったのかと、私はようやく理解した。


 裕次郎さんとアリスの絆らしい絆は、ここで初めて結ばれたらしかった。

 僕は僕のアリスが初めて笑ったときのことを思い出した。種を呑む直前、血の沸くような愛くるしい笑顔を見せてくれた。厳密に言えば、彼女はこのときまだアリスではなかったから、アリスになる前の、本当の自分でいたときの、最後の笑顔だった。僕たちの場合、僕が彼女に種を差し出したその瞬間に、絆は繋がったのだろうと思う。

 付き人とアリスは、みんな静かに絆を紡ぎ続けてきたのだろう。その鱗片が、本棚の日誌の中に詰まっている。

 僕は裕次郎さんの日誌を閉じて、決して帰ることのできない過去を、懐かしく思い返した。

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