第5章 付き人日誌

第14話 お墓

 剣道部の日曜練習を終え、僕はぼんやりとベッドに寝転がっていた。今日はまだアリスと顔を合わせていない。佳歩さんに訊ねると、アリスはしばらく西棟から出ないだろうとのことだった。

 満たされない気持ちをぶら下げて付き人の部屋に行くと、粘土のように押し固められた濃密な空気が僕の寂しい心を見抜き、冷たい孤独を優しく包み込んでくれるような気がした。

 本棚には歴代の付き人たちが記してきた日誌が並んでいる。これを書いた人たちはもう誰もいない。みんな天国にいってしまった。

 亡くなったばかりの裕次郎さんの日誌はまだ怖くて読めそうにないけれど、裕次郎さんの前任者だった雪也ゆきやさんのものなら大丈夫かもしれない。滅多に会わなかったけれど、まだ十歳にもならない僕を大事に扱ってくれた。顔もよく思い出せないけれど、いつも微笑んでいたことだけは覚えている。懐かしさが込み上げてきた。

 机のスタンドを付け、胸の高鳴りを感じながら、上質なハードカバーの表紙を開く。日誌の始まりは五年前の四月。僕がまだ七歳のころのものだった。


『いよいよ付き人の生活が始まった。噂は色々と聞いたけれど、分からないことだらけだ。森の奥にアリスたちの墓があるというので手を合わせてきた。私も寿命が来たらアリスと共にそこへ葬られるのだろう。そのときが来るまで、アリスが不自由しないよう、見守っていくつもりだ。』


 アリスたちの墓――?

 そんなものがあるなんて知らなかった。どこにあるんだろう。他のページも捲ってみたけれど、詳しい場所までは書かれていない。他の付き人の日誌も捲ってみると、雪也さんの前任者が詳細を記していた。屋敷裏の森、南の奥。いつも裕次郎さんと散歩をしたルートのそばだ。森の中に人の足で踏み固められた道があったのはそのためだったのだ。いてもたってもいられなくなり、森へ飛び出した。

 灰色の空だった。雨は降らない。逸る気持ちを抑えられず小走りに行くと、散歩道を半分来たところに脇道があった。乱れた息を整えるのももどかしく、その脇道へ一歩足を踏み入れる。湿った落ち葉や枝を踏みながら恐る恐る奥へ行くと、先の方に開けた場所があり、視界が僅かに明るくなった。その明るみの中に、石碑の影がぼんやりと浮かんでいた。横長で灰白色かいはくしょくの石。表に大きく『ALICE』とだけ書かれている。これがアリスのお墓のようだった。

 あの日、裕次郎さんとアリスが息を引き取ったあの夜、裕次郎さんのアリスは手のひら一盛り分の灰の山になってしまった。僕はアリスが灰になったところを直接見たわけではないけれど、後に佳歩さんが白い器に灰を盛り「これがアリスですよ」と教えてくれた。生きていたころの温もりが残っていそうな、淡く輝く灰だった。アリスになった子は行き先もないから、こうしてここに葬られるんだろう。付き人だった裕次郎さんは病院へ運ばれたあと家族が看取ったから朝永屋敷には遺骨もないはずだけど、晩年をアリスに捧げた身として何らかの形でアリスと一緒にこの石碑に眠っているんだろう。付き人がアリスを一人にしてあの世へいくなんて考えられない。

 僕もいつかはここへ入るのだ。僕のアリスと一緒に。

 突然、背後からかさかさと足音がして、思わず振り向いた。西棟にいたはずのアリスがいた。僕の隣に立ち、不安げに僕の腕を握り、じっと石碑を見つめる。

「ここ、アリスのお墓なんだって。アリスになった子は、みんなここに弔われるんだよ」

 石碑は薄明かりの中で微かに艶を放っていた。アリスは石碑から目を離さない。

「僕たちも寿命が来たらきっとここへ弔われるよ」

 アリスは頷いた。

「お祈りしていこうか」

 僕たちは二人で並んで手を合わせ、歴代のアリスや付き人たちの冥福を祈った。いつか僕らもみんなの仲間に入る。そうしたら、寂しい気持ちも少しは癒されるのかもしれない。

 分厚い雲の隙間から、儚い光が一筋零れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る