第9話 アリスの素顔

 今まで僕が見てきたアリスはみんな表情が乏しく、笑うことも怒ることも泣くこともしなかった。人間の姿をしているだけで、中身は人形なんじゃないかと疑ったこともある。もっともアリスは僕のいる東棟へは来ないし、僕自身が深くアリスたちと関わってきたわけでもないから、どこか知らないところで人間らしい振る舞いをしていたのかもしれない。

 人間らしい振る舞い――それは一体、何のことを言うんだろう。僕もどこかで人間らしい振る舞いをしているんだろうか。

 同級生たちを見ているとみんな楽しそうに言葉や表情を交わしていて他者を恐れていない。

 人付き合いの苦手な僕はみんなの目にどう映っているのだろう。僕だって表情があまり豊かではないからみんなから見たら人形のように見えるのかもしれない。

 心臓は鼓動しているし全身に血は流れているし三十六度代後半の体温だって持っている。それでも僕は自分がまっとうな人間であることを信じられなかった。

 親もいないし、この屋敷だって本当の家ではない。僕を育ててくれた佳歩さんのことはこの世で一番大好きで大切な人だけれど、きっと他の人から見ても僕の人生には色んなものが欠けているように見えるだろう。

 アリスを迎え、僕の日常は変わった。歴代のアリスと同じように僕のアリスも普段は西棟にいるのだけれど、僕の部屋が東棟にあるせいか、暇さえあればアリスは東棟へ来て僕の部屋の扉を叩いた。アリスが東棟へ来るなんて前代未聞のことだった。ずっとそばでアリスたちの暮らしぶりを見てきたのに、いざ付き人になると分からないことだらけだった。

 僕たちは明後日から中間テストを控えていた。朝永屋敷の習わしに巻き込まれたとはいえ、学校に通っている以上テストを受けないわけにもいかない。

 セーラー服姿のまま僕の部屋に来て本棚から大判の仕掛け絵本を取り出しティーテーブルで眺めていたアリスに、僕は声をかけた。

「アリス、一緒にテスト勉強しようか。制服も着替えておいでよ」

 アリスはうなずいて絵本を片付けると一度部屋を出ていった。白い長袖のカットソーの上にオリーブグリーンのロングジャンパースカートを身につけたアリスは、西棟から学校の鞄ごと勉強道具を持ってきてティーテーブルに広げた。テーブルが狭いので僕は自分の勉強机で勉強をする。

「アリスは何の勉強からするの?」

 彼女は漢字のプリントを掲げた。

「漢字か。僕は歴史からする。頑張ろうね」

 アリスはうなずいてシャーペンを持った。

「ところでアリスは東棟に来てもいいの? 佳歩さんやご主人様に怒られない?」

 そう訊ねると、アリスは何も心配いらないよと言うようにうなずいた。誰も咎めないのならいいのだろう。僕たちは机に向かって勉強した。

 今まで一人で黙々とやっていくのが当たり前だったから、誰かと一緒に勉強することが新鮮だった。背後からシャーペンの音や紙の擦れる音が聞こえる。

 アリスが――あのアリスが、僕と同じように勉強をしているなんて信じられない。感情に乏しく人形ように見えた過去のアリスたちも、こうして何気ない日常生活を営んでいたのだろうか。限られた人しか立ち入ることのできない、魔境にも思えるあの西棟で、普通の、何でもない日常が、毎日繰り返されていたのだろうか。西棟に足を踏み入れたことのない僕には想像のつかないことだった。

 僕もアリスも時間を忘れてペンを走らせた。もうじき六時になろうとするころ佳歩さんが「お食事の時間ですよ」と知らせに来てくれた。

 アリスはぱっと輝く笑顔を浮かべ、いそいそと勉強道具を片づけた。――食事を楽しみにしていたんだろうか。

 アリスは僕の腕を引っ張り、『早く行きたいよ』と訴えた。

「分かったよ、行こう。おなか空いたね」

 僕のアリスはよく笑う。こんなに表情豊かなアリスなんて見たことがない。本当にこの子はアリスなんだろうか。信じられないような気もした。裕次郎さんのアリスも裕次郎さんの前ではこんな風だったんだろうか。僕の前では笑顔はおろか、落胆や怒りの感情すら見せなかったのに。

 僕は東の窓を見た。いつの間にか、美しい闇が広がっていた。

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