第8話 散歩
生前、裕次郎さんはよく僕を散歩に連れ出してくれて、その日も木漏れ日の差す屋敷裏の森を二人で歩いた。歩くと言ってもちゃんとした道はなく、人の足で踏み固められた土道があるだけだった。
まだ涼しい春の中頃、森の中はひんやりした。肩に落ちる木漏れ日がきらりと光った。
真っ直ぐ前だけを見つめる裕次郎さんの横顔を僕はちらちらと盗み見た。裕次郎さんの髪にも頬にも木漏れ日が差しているけれど、その眩しさを裕次郎さんはどんな風に感じているのだろうと思った。
裕次郎さんはふとこちらを向いて訊ねた。
「中学はどう? もう慣れた?」
この頃僕は中学に入学したてで新しい環境の感触を手探りで確かめている所だった。
「はい、少しだけ」
と僕は返事をした。
「部活は何に入ったの?」
「剣道部です」
裕次郎さんは目を丸くして驚いた。内気な僕が運動部に入ったことが意外らしかった。文化部といえばパソコン部と吹奏楽部しかないけれど、前者は持病を持っているなど特別な事情で運動部に入れない生徒しか入部が許されていないし、後者はコンクールに出ることが嫌で止めてしまった。
「剣道部の見学に行った時、袴姿のみんなが綺麗な所作で正座したりお辞儀したりする所を見ていたら、何だか凛々しくていいなと思って」
「やってみたくなったんだね」
「はい」
裕次郎さんは「そっか」と言って笑った。
「確かに拓真君なら袴姿も似合うだろうな」
裕次郎さんは中学時代サッカー部に入っていて、足捌き一つでボールが自由自在に操れることが楽しく、夢中になったと語ってくれた。裕次郎さんらしいな、と思った。
「拓真君は色んなことを考えててすごいな。俺が中学生だった頃は自分のことすら何も考えられなかったし、世の中のことも全然知らなかった。拓真君は読書家で色んなことを知っているし頭もいい。きっと、将来立派な大人になるんだろうな。どこへ行っても、みんなの役に立てるような…………」
裕次郎さんは含みを持たせて言葉を切り、誰もいない方へ視線を投げた。
裕次郎さん、僕はそんな立派な人になれる自信なんてありません。胸の中でそう呟いた。本を読むことも勉強をすることも嫌いではないけれど、生きる目標があるかと言われるとそうでもないし、生きることが楽しいかと言われるとそうでもない。僕は正しい生き方をしているのだろうか。間違った生き方をしているのではないか。そもそも僕は生まれてきてもいい人間だったのか。心のどこかに生きることへの恐怖心があって、その恐怖と戦うことで精一杯だった。
その時、裕次郎さんがなぜ含みを持たせて言葉を切ったのか、理由は八月の終わりに分かった。
いつものように二人で屋敷裏の森に散歩に出掛け、切り裂くような赤い夕暮れの中で、裕次郎さんは僕に継承の種を差し出した。
「いつから僕に託そうと思っていたの?」
そう訊ねると、裕次郎さんは寂しく笑った。
「二年半前、君と出会ってすぐ。ああ、この子なんだなと思った。何となく、そう思ってた」
僕が次の付き人になることが分かっていたからあんな言葉の切り方をしたのだ。それでも僕の将来の話を持ち出したのは、心のどこかで僕が次の付き人であることを否定したい気持ちが、裕次郎さんの中にあったんだろう。裕次郎さんの願いとは裏腹に、僕自身の生への消極性が、きっと継承の種と呼応したのだ。
渡された小さな種は驚くほどぴったりと掌の窪みに収まった。
「こんな役を押し付けてごめん。拓真君しか託せる人がいなかった」
裕次郎さんは息も詰まるような切ない瞳で僕を見た。今までこんな風に誰かと視線を交わしたことなんてあっただろうか。
「いいんです、裕次郎さん。僕も何となく分かってました」
僕が固く種を握り締めると、裕次郎さんは泣き出しそうな微笑みを浮かべた。
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