第3章 新たな付き人

第6話 新たなアリス

 裕次郎さんが息を引き取ってから十日。僕は裕次郎さんから託された種を袋に入れて肌身離さず持ち、新しく生まれようとするアリスのことを思った。学校にいる間はポケットに入れたまま種のことを考え、屋敷に帰った後は机の上に出していつまでも眺めた。

 里奈さんにも伝えた通り、新しいアリスには見当が付いていた。誰とも喋らない同級生の女の子。あの子に違いない。

 低学年の頃はまだ微笑みが見られたり誰かと手を繋いで廊下を歩いたり、小さい声ながら会話を交わしたりする姿が見られたけれど、学年が上がれば上がるほど彼女は表情を失っていき、声も出さなくなり、周囲の人と距離を置くようになった。

 僕が彼女を意識し始めたのは裕次郎さんが屋敷に出入りするようになってからだった。自己主張をせずわざと存在感を消しているようにさえ見える彼女の存在が、僕の中で、クラスの誰よりも大きくなっていった。彼女が存在を消そうとすればするほど、その気配を強く感じた。最近では種を眺めているだけでその子の顔が思い浮かび、「僕は種を持っているよ。君はそのことを知っているの?」そう訊ねたら、その子は頷いてくれるような気がした。

 僕は透明な袋越しに何度も種を握った。

 放課後、僕は帰り支度をして他の同級生たちと同じように教室を出た。今はテスト期間中で部活もなく、みんな揃って家路に就いた。

 僕は西門から出て、歩いて10分の屋敷へ帰っていく。あの子は東門から出て僕とは反対方向へ帰っていくはずだけれど、その日はホームルームが終わってからずっと僕の方を見ていた。僕がポケットに忍ばせている種の気配を感じているかのようだった。僕が教室を出ると彼女も教室を出て、西門を出る僕の後ろに付いてきた。話し掛けたいけれど、学校の周りには人がたくさんいる。話し掛けられない。

 僕たちは周りに人がいなくなるまで黙って歩いた。屋敷の前に広がっている稲田まで来ると人影は絶えた。立ち止まって振り返るとあの子も立ち止まって、何かを待つように僕を見た。僕はその子に歩み寄り、ポケットから種を出した。

「これ、受け取ってくれる?」

 赤い夕日が僕らを照らしていた。無表情だった彼女の顔が緩んで、血の沸くような愛くるしい笑顔が浮かんだ。

 こくんと一つ頷いて、あの子は僕の手から種を取った。これが何の種なのか、どう扱えばいいのか、全部知っているみたいだった。人差し指と親指で種を摘まみ、僕の見ている目の前で口に含んだ。喉が動き、特に苦しむわけでもなく、あの子は種を呑み込んだ。

 アリスだ。僕のアリスだ。こんなに近くに、いつもそばに、アリスはいたのだ。

「これからよろしくね」

 僕が手を差し出すと、アリスも微笑んで僕の手を取った。

 里奈さんはきっと悲しむだろう。でも、僕にはこの握手が人生の何よりも嬉しいことのように思えた。今までどのアリスも僕の前では無表情だった。でも、このアリスは笑ってくれた。僕らの寿命は決まった。小さな砂時計がくるりと回ってぽろぽろぽろぽろと砂が落ちていく。二年後、僕らは一緒にこの世を去る。もう何も心配することはない。僕はこの子を守っていけばいい。

「もう、寂しくないからね」

 僕がそう言うと、アリスは頷いた。裕次郎さんのアリスも他のアリスも、もしかしたら付き人の前では表情豊かだったのかもしれない。

 僕たちは手を繋いで朝永屋敷まで帰った。刈り取り直前の豊かな稲穂が輝いていた。見渡す限り金色だった。アリスの黒髪も絹のように光った。

 佳歩さんは新しいアリスをすぐに受け入れて世話をしてくれた。朝永家の主人とももう顔を合わせたんだろう。あの子は今日からこの屋敷でアリスとして生きていく。僕は付き人だ。

 アリスを佳歩さんに託して部屋に戻ると、里奈さんにメッセージを送った。

『僕のアリスを見つけました。もう、種も呑んでもらいました。』

 そう送ると、里奈さんからは簡単な返信が来た。

『分かったよ。教えてくれてありがとう。』

 悲しみも恨み事もない、短いメッセージだった。

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