第3話 拓真少年

 拓真君は赤ん坊の頃にこの屋敷に引き取られた子だった。親のことは拓真君自身も、拓真君を引き取った朝永家の当主もよく知らないらしい。引き取って以降、一切交流もなく、どこに住んでいるのかも分からないとのことだった。昔から屋敷に仕える佳歩さんが親代わりとなって面倒を見てきた。孤独な生い立ちながら聡明で勉強もよくできて、熱心な読書家だった。こんな境遇じゃなければどんな大人になっていただろう。裕次郎から種を引き継いだ以上、拓真君に将来はない。あるのはあとわずかの寿命だけだ。

「裕次郎さんは僕を見かけるといつも散歩に誘ってくれました」

 拓真君は窓の外の森に目をやりながら裕次郎との思い出を語ってくれた。裕次郎が屋敷に来るのはいつも夕方で、学校帰りのアリスと一緒だったという。

「僕は東棟に部屋があるので西棟に部屋がある裕次郎さんのアリスとはあまり顔を合わせなかったんですけど、同じ学校に通っていたから出かけるときや帰るときのタイミングがほとんど一緒で、朝と帰りだけはエントランスでよく見かけました。言葉を交わすことも目を合わせることもありませんでしたけど、アリスらしい白い肌と黒い髪、大きな瞳だけは印象的でした。たまに学校で見かけたときも、アリスの気配だけはすぐに分かりました。他の人とは何となく違っていたから」

 拓真君の言う通り、アリスというのは不思議な存在だった。ほとんど感情がなく、笑うことも眉をひそめることも驚くこともなく、言葉を失っているから喋ることもない。唯一、人に会釈をすることだけはでき、私も何度か頭を下げてもらった。そのときに見た大きな瞳と豊かな睫毛、香るような桜色の唇が印象的だった。

 裕次郎は森の中を散歩する間、ずっと拓真君を励ます言葉をかけていたという。拓真君はそのことをよく覚えていて、遠い視線の中に追憶を映しながら話を聞かせてくれた。

「裕次郎さんは僕の未来と可能性を信じてくれていました。拓真君はきっと立派な大人になるから頑張って、応援してるからと言ってくれていました。でも僕は、その将来が怖かった。何の力も持たない自分が先の知れない未来を生きていくことが怖かった。そんな臆病な気持ちが種を引き寄せたのかもしれません。結局僕は裕次郎さんから種を託されて、それを新しいアリスに呑ませようとしている。きっと僕は、中学を卒業しないまま死んでいきます」

「もう、誰に呑ませるのかは決まったの?」

 拓真君はかすかにうなずいた。

「見当は付いています。まだ半信半疑だけれど、あの子に違いありません」

「種を放棄することは出来ないの? 誰にも呑ませなければ拓真君は死なないし、新しいアリスも無事でいられる。こんな悲しいこと、もう終わりにしたい」

 拓真君は横顔を見せてうつむいた。

「ごめんなさい、里奈さん。僕が放棄しても、種はきっとアリスと出会います。そして、アリスは心の底から喜び、安堵して種を呑むと思います」

 私は何も言い返せなかった。

 拓真君は現世にいながら死の夢の中に漂い、今にもどこかに消えてしまいそうだった。

「僕のアリスはどんな子なんでしょうか。やっぱり、今までのアリスみたいに大人しいのかな」

 未来のアリスのことを語るときだけ柔らかな口調になった。幼い頃からこの屋敷に住み、断片的にもアリスの継承に触れているからか、拓真君はこの継承にさほど抵抗もなく、種を引き継いだ付き人の使命を、無意識に遂行しているように見えた。

 私には分からなかった。この『アリス』という習わしは一体何なのだろう。何の意味があって脈々と受け継がれているのだろう。昔からこの朝永屋敷は曰く付きで不気味だと恐れられていた。私も小学校に上がった頃に朝永屋敷の噂を聞き、面白半分でみんなと一緒に見に来たことがある。赤い夕日が町を染め、西の山の影が屋敷を覆っていた。ひんやりした山影に肩を叩かれたような気がして、友達と一緒に悲鳴を上げて逃げ出した。そのときのことを昨日のことのように思い出す。

 大人になってからこうして朝永屋敷の秘密に触れるなんて思いもしなかった。

「私は拓真君を死なせたくない。いなくなってほしくない」

 拓真君はガラスのような光を抱いた悲しい瞳を私に向け、すぐに視線をそらした。

「ごめんなさい」

 と、唇が小さく動いた。

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