第2話 妃本立の町
裕次郎と再会するまで私が
山に囲まれた狭い平野に田んぼと住宅街が広がるごく普通の町を、私は恐れた。
日当たり具合は他の町とさして変わらないのに、あちこちに落ちる山の影が冷たく不気味だった。風が吹くと梢が鳴る。一歩山の影に入るともう二度と抜け出せない深淵を見てしまう気がする。振り返ると何もない。そこになければならないものまでぽっかり欠けているような気がして怖かった。
早朝からアーバンブラウンのラパンに乗り、朝日の差す国道を真っ直ぐ走る。私の心情とは裏腹に、土曜の町中は明るかった。仕事や学校に行く人もいるのだろうが、行楽に行く人もいるだろう。私の車と他者の車、二つの壁で隔てられただけで、世界はずいぶん違うのだなと思った。時間が早いので道沿いの店は閉まっているところばかりで、コンビニだけが賑わっていた。
延々二十分、二車線の国道を道なりに走る。やがて見えてきた妃本立の交差点を左に曲がり、私は生まれ育った町へ入った。
町は静まり返っていた。どの方角を見ても低い山が景色を遮っている。山の合間を縫うように田んぼが広がり、さらにその合間を縫うように家々が並ぶ。この不規則な並びの屋根の下に、人々が暮らしている。
町の西側へ車を走らせ、山裾に抱かれている洋館風の屋敷を目指す。緑青色の屋根と白い壁が田んぼの向こうに見えている。朝日を浴びて屋根が光っている。中学校のグラウンド脇を通り抜け、山沿いの細いうねり道を走り、ようやく屋敷に辿り着いた。
前庭に車を停め、エンジンを切り、車を降りる。『屋敷』と言われるほどの大きな家に相応しく、玄関の扉は重厚だった。私は手を伸ばし、扉の隣に付いているベルを鳴らした。
厳かな黒褐色の扉がぎぃと鳴り、家政婦の佳歩さんが出迎えてくれた。
「里奈ちゃん、よく来てくれたわね」
四十代中頃の細身の女性だった。皺のない綺麗な肌に、控え目な薄化粧をしている。他人の目があるときには敬語で接してくれるけれど、私と二人きりのときには本当の娘に接するようにラフな言葉使いをした。ボブカットの髪が朝日に打たれてブラウンに光る。
「佳歩さん、朝早くにごめんなさい」
そう言って会釈をすると、佳歩さんは私の背中に手を添えて屋敷の中へ招き入れてくれた。
「いいのよ。拓真さんから聞いてるわ。昨夜は残念だったわね。心配してたのよ」
佳歩さんに先導され、広いエントランス奥の階段から二階へ上がり、拓真君の部屋へ向かう。佳歩さんがノックをすると、拓真君は扉を開けてくれた。青白い顔だった。佳歩さんは私を拓真君に引き渡すと一礼をして去っていった。
拓真君は私を部屋へ通し、ティーテーブルの席に座らせてくれた。
「里奈さん、来て下さってありがとうございます。大変なときなのに」
「私の方こそ、昨日は知らせてくれてありがとう。返事、夜中になっちゃってごめんね」
「僕も寝付けなかったのでちょうどよかったんです。種熱は突然でした。裕次郎さんから種を引き継いで一ヶ月が経つのでそろそろとは思っていたんですが、本当に急でした」
「裕次郎のアリスはどうしたの?」
「夜中のうちに灰になってしまいました。すごく小さくなってしまった」
私は返す言葉もなかった。裕次郎は息を引き取った後も体が残ったけれど、アリスというのは死後、体が灰になるのだそうだ。
「裕次郎さんとは屋敷裏の森をよく一緒に散歩したから……いなくなったなんて信じられません」
そう言いながら、拓真君は窓の外の森を見た。
妃本立から離れた私と違って、裕次郎と拓真君はこの小さな町で暮らしている。アリスの付き人という同じ運命を持った者同士、通じ合うところもあったのだろう。裕次郎を失ってショックを受けているのは私だけではない。
裕次郎は、いつから拓真君を後継者として見ていたのだろう。
拓真君は私に背中を向けてじっと外を見ている。中学生になってからまだ半年しか経たない、細く儚く、複雑な影を背負った背中だった。
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