第32話

 昼前にはアパートに着いた。

 今日も今日とて日差しが厳しい。駅からここまで歩いただけで体の至るところから玉のような汗がわき出てくる。

 それを拭いつつ自分の部屋に入って荷物を置く。そして、クッキーだけ持って加賀さんの部屋を訪ねた。

 インターホンを鳴らすとすぐに加賀さんは出てきた。いつも通りよれよれのシャツを着て、ドアの隙間から顔を出した彼は僕の顔を認めると「やあ」と微笑んだ。

 挨拶を交わしたあと、さっきまで帰省していたこと話した。それから、地元で買ったクッキーをチケットのお礼にと渡す。

 加賀さんは「わざわざ悪いね」と恐縮しながらも、嬉しそうにクッキーを受け取ってくれた。

「そうそう、この前の写真、出来上がったよ」

 そう言うと加賀さんは一旦部屋の奥に引っ込んだ。それから一分もしないうちに戻ってくると、わら半紙の封筒を差し出した。糊で封はされておらず、上の口の部分がしっかりと折りたたまれている。

 受け取って中身を出すと、写真が一枚だけ入っていた。外廊下の柵にもたれてこちらを見る僕と野宮が笑って写っている写真だ。

 笑った野宮を久しぶりに見た気がする。この頃が一番野宮との関係が良かったし僕自身も楽しかった。

 つい一週間くらい前のことなのに遠い昔のことのように感じられた。

「よく撮れているだろう」

 じっくり写真に見入る僕に、加賀さんも写真をのぞき込んでいった。

「はい。よく撮れてます」

 それから写真のお礼を言って部屋に戻った。

 部屋の壁に掛けた電気やガスの請求書でいっぱいのコルクボードを綺麗にして、空いたスペースにその写真を飾った。

 改めて写真を見ていると野宮と過ごした日々を思い出して涙が出てきそうだ。

 本来なら協力関係から解放されて嬉しいはずなのに、そんな感情はまったくない。それよりも何か大切なものが抜け落ちてしまったような喪失感が僕の中に立ち込めている。

 この感覚はなんだろう──。

 僕はもうその感覚がなんだか見当がついていた。

 認めたくなかったが、僕はやっぱり野宮のことを好きになってしまっていたみたいだ。

 でも「好き」にもいろいろある。僕が写真を撮ったり、映画を観たりすることも「好き」だし。糸川さんが石山に抱く感情も「好き」だ。加賀さんが娘に向ける感情も、倉井が野宮に向ける感情も種類は違うがどちらも「好き」に分類されるはずだ。

 今、僕が感じているこれがどういう「好き」なのか、これまで一度も友人も恋人もいなかった僕には分からない。

 ただ野宮のそばにいたい。それだけは、はっきりと分かった。


 ライブ当日の土曜日、空は生憎の天気だった。

 昼頃から降り出した雨は次第に強くなり夕方には本降りになっていた。

 降りしきる雨の中、僕は約束通り会場のコンサートホールの前で野宮を待っていた。

 あんなことがあった後に来るとは思えなかったが、約束は約束だ。一応午後六時まではこの場所にとどまることにしよう。

 入口付近には雨だというのに開場を今か今かと待つファンたちが長い行列を作っている。

 もしかしたら列の中に野宮が紛れているかもしれない。

 そう思って行列を先頭から順に確認することにした。

 列の外側から並ぶ人たちを眺めると友達同士、カップル、親子などその顔は様々だ。

 最後尾まで一通り見たが、野宮の姿は見つからなかった。

 やっぱり来るわけないよな。そう思ってため息をついた時──。

「天原くん?」

 突然、どこからか僕を呼ぶ声が聞こえた。辺りを見回すと列の中からこっちに手を振る人がいる。

「糸川さん!」

「やっぱり会えたね!」

 僕を呼び止めたのは石山の彼女の糸川麻里奈さんだった。

「この前は勝手に帰っちゃってごめん」

 先日のテーマパークでのことを詫びると、糸川さんは胸元で両手を振りながら言った。

「いいの! いいの! 野宮さん門限だったんだよね?」

「え?」

「違うの? 基樹がそう言ってたけど」

 石山のやつ、そんな言い訳をしたのか。僕のことを悪く言わなかったのは糸川さんを傷つけないためだろうか。

 何であれ、あのことは彼女は知らないほうがいいだろう。

 僕は「ああ、そうだよ」と石山の嘘に乗った。

「それで、今日は一人?」

 糸川さんは僕の隣に目をやって言った。野宮のことを言っているのだろう。

「実は野宮と来るつもりだったんだけど、彼女ちょっと来れなさそうなんだ」

「それは残念だね。せっかくチケットまで買ったのに」

「あ、それは大丈夫。チケットは近所の人からの貰い物だから。その人、娘と行くつもりだったんだけど『友達と行く』って断られちゃったんだって。それでおじさん一人で行くのも恥ずかしいからって、くれたんだ」

 僕がそういうと糸川さんは「えっ」と小さく声を漏らし、目を大きくさせた。

「ねぇ、変なこと訊くけどいい?」

「え、いいけど」

「そのチケットくれた人、加賀って名字?」

「えっ!」

 息が止まりそうなほど驚いた。次の言葉を発そうとするが、魚のように口をぱくぱくするだけで声が出ない。

 サァーっと降る雨の音がやけに耳についた。

 息を整えるためにゆっくりと深呼吸した。濡れたアスファルトの匂いが鼻腔をくすぐる。平常心を取り戻すと、やっと言葉を出した。

「なんで分かったの?」

「加賀は私の父親なんだ。高校生の時に両親が離婚して私は母親について行ったの」

「じゃあ、月に一度だけ会う娘って……」

 僕が呟くと、糸川さんは「そんなことまで話したの?」と眉を顰めた。

「そう、私よ」

 首を縦に振りながら糸川さんは認めた。

 驚いた。糸川さんと加賀さんが親子だったなんて……。

 言われてみれば、目元のあたりが似てなくもない。それにしてもあのひょろひょろの加賀さんの娘にしては目鼻立ちがいい。

「どうしたの?」

 糸川さんの不思議そうな声で僕は彼女の顔をまじまじと見ていたことに気づいた。

「い、いや。チケット、なんだか悪いなぁって」

 視線をそらして答えた。本来なら加賀親子が楽しむためのチケットだ。不要になったとはいえ部外者の僕がそれを使って楽しむのは肩身が狭い。

「あ、いいよ。気にしないで使って。その方がチケットの有効活用だから」

 糸川さんは太陽のような朗らかな笑顔を浮かべた。

 そんな彼女に、言い回しが加賀さんとそっくりだ、と僕は思った。よく見ればあののほほんとした笑顔も加賀さんのDNAを受け継いでいる。

「それじゃあ遠慮なく使わしてもうよ」

 僕が言うと彼女は満足したように頷いた。

「加賀さん、糸川さんと行けなくてがっかりしてた。アントリアのことあんまり知らなさそうだったから、わざわざ調べたんじゃないかな」

 「いいお父さんだね」と言おうとしてその言葉を呑み込んだ。糸川さんの表情がどんよりと曇ったからだ。ちょうど今の天気のように。

「……散々、撮影だのなんだのってあたしとお母さんほったらかしにしてたのに、今更なんなの。都合のいい……」

 伏し目がちに呟くと糸川さんは、はっとして誤魔化すように作り笑いを浮かべた。

「こんなこと、天原くんに言ってもしょうがないよね」

 ちょうどその時、係員により開場の案内放送がされた。行列の面々は待ってましたと言わんばかりにがやがやと騒がしくなった。係員が先頭の客から順番に案内を始め、列が徐々に動き始めた。

「入場、始まったみたいだね。じゃ、天原くん。お互い楽しもうね!」

 糸川さんは「バイバイ!」と片手を振ると入場列の中に消えていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る