第33話

 腕時計を見ると約束の午後六時だ。会場の入り口付近を見回ったが、野宮はいなかった。

 それから十分ほどグッズのタオルを買ったりしながら様子を見ていたが、野宮が現れることはなかった。

 ハナから期待していなかったが、実際に来ないとなると結構ショックになるものだ。寂しさに肩を落として一人入場口に向かった。


 ホールの中は自分の席を探してうろうろする観客や席に座って連れと楽しくお喋りする人でいっぱいだった。僕もその人たちと同じになって自分の席を探した。

 チケットの席は前から三列目という良席だった。ここからならアントリアのメンバーの顔もはっきり見えるはずだ。

 振り返ると一階席の他に二階席が見えた。ここからだとそこにいる人たちが豆粒のようだ。

 糸川さんの席がどの辺りかは分からないが、もし後ろの方だったらと考えると少し申し訳ない気持ちになる。

 しかし、さっき言っていた通りめいいっぱい楽しんだ方が彼女も喜んでくれるだろう。

 僕は今までの細々とした考えに一旦蓋をして、目の前の舞台に意識を集中した。

 その瞬間、客席の照明がふわっと消えた。観客たちはお喋りをやめ、みんな舞台に視線を向けた。

 ほんの少しの静寂な時間が過ぎると、ギターの軽快なメロディーが聞こえてきた。観客たちもそれに合わせて手拍子を始める。観客に負けじとメロディーにドラム、ベースと楽器がだんだん追加されていく。

 その場にいる全員がリズムに乗ったとき、舞台がぱぁっと明るくなりアントリアのメンバーが登場した。

 客席は一瞬で沸騰したように色めきたった。どの人も手を振り上げ、歓声をあげている。

 僕も初めて間近で見る芸能人、それも大好きなバンドのメンバーということに興奮し、周りの客と同じように手を振っていた。

 メンバーたちは舞台中を練り歩き、観客の歓声に応える。ボーカルを担当するメンバーが中央に立つと、アップテンポの曲が始まった。

 この曲は数ヶ月前にリリースされた新曲だ。僕も近所のCDショップでこの曲を発売日に買った。

 演奏はこの新曲とライブ定番曲の二曲で一旦終了した。

 ここからはトークタイムだ。サポートメンバーだけが舞台袖にはけていき舞台上にはアントリアだけが残された。

「みんなー! 楽しんでる?」

 ボーカルがペットボトルの水で喉を潤してから問いかけた。

 観客たちは口々に「楽しんでるー!」や「楽しい!」などの言葉を叫んでいる。

 そこからメンバーの近況報告やこの街の印象や名物の話など楽しいトークが繰り広げられた。

 そしてまた演奏が始まる。今度はしんみりとバラード曲だ。

 アンコール曲も含め、すべての演目が終わった後、僕は満足感に打ちひしがれていた。生で聴く音楽はこれほどにも心を揺さぶるのか!

 高揚感の中会場を出ると外は真っ暗になっていた。雨は相変わらず降り続けていて、観客たちの傘が駅の方向へ流れを作っている。

 すると、そこに会場のスタッフらしきジャンパーを着た人がやって来て拡声器を掲げた。

「アントリアのライブにご参加されましたお客様にご案内します。現在、JR線は大雨により運転を見合わせております。なお私鉄各線につきましては運行している模様ですが大幅な遅れが出ています。繰り返しお客様に……」

 会場の前に残った人たちは運行状況を調べているのか心配そうにスマホを眺めている。

 僕の下宿は私鉄沿線にある。私鉄は大幅な遅れとのことだが、動いているなら大丈夫だろう。この後、何か別の予定もあるわけではないし急ぎはしない。とりあえず今の情報を調べておこう。

 そう考えてスマホをつけると、ロック画面に大量の通知が表示された。そのほとんどが不在着信でどれも野宮からのものだった。ライブ中は電源を切っていたから気づかなかったのだ。

 もしかして気が変わったのかな……。どうしたんだろ?

 一番新しい通知は一時間前に来たメールだった。それを開けた途端、全身から血の気が引いた。

『奥本に監禁されている。天原さん、助けて』

 どういうことだ? 野宮が奥本に監禁された?

 僕は念のために野宮に電話をかけた。どうか間違いであってくれ……。

 プルルルとコール音が続く。誰も出ない。一度切ってもう一回かけ直した。プルルル、プルルル……。やっぱり誰も出ない。

 背中から脂汗がじわじわと染み出てくる。嫌な予感がする。

 野宮を助けに行かないと!

 傘もささずに会場を飛び出したところでふと思い出した。奥本のマンションがJR沿線だったことを。

「JR、止まってるんだった……」

 乗り換え案内のアプリで調べてみると奥本のマンションから離れているが、私鉄も通っているようだ。しかも地下鉄と乗り入れしているようでコンサートホールの最寄り駅から乗り換えなしで行ける。

 大雨の影響でこちらも遅れているみたいだが動いているならまだ希望はある。

 しかしその希望は地下鉄の駅に着いた時、脆くもあっさりと崩れてしまった。

 駅には僕と同じように考えた人がたくさんいたのだ。

 JRの振り替え輸送客が駅の入り口に長蛇の列を形成している。この分だと駅の構内に入るだけでも相当な時間がかかりそうだ。電車に乗るならさらにかかるだろう。

 僕は列の最後尾に並びスマホである人に電話をかけた。こちらはワンコールでつながった。

「もしもし、倉井か? 今、大丈夫か?」

『今? バイト中だけど客いねーからいいよ」

「大変なんだ。野宮が奥本に監禁されたって」

 監禁という不穏な言葉に前に並んでいた人が怪訝に振り返る。僕は周囲に聞こえないように電話口を手で覆い声を静めた。

『それどういうことだよ!』

「僕も詳しいことはわからない。さっきスマホにメールが来ているのに気づいたんだ。それから電話したんだけど繋がらなかった」

『それやべーじゃんか。オマエ、今どこだ』

「地下鉄東条駅。これから奥本のマンションに向かうとこだ。でも人が多すぎて駅に入れない。どうしよう」

 電話の向こうで舌打ちが聞こえた。

『奥本のマンションに優月がいるんだな?』

「分からないけど、可能性は高い」

『マンションはどこにあんだ?』

「大津駅の近くだ」

 倉井がぶつぶつと「大津ならバイクのほうが早いか……」と呟くのが聞こえた。

『おい、オマエ。そこで待ってろ二十分で行く』

 それだけ言うと電話はぶつっと乱暴に切れた。

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