第28話

 野宮は覚悟を決めた様子で僕に振り返ると目で「始めます」と伝えてきた。

 これからどんな仕返しが始まるんだろう。いつでも動けるように体勢を整えた。

 大きく息すると野宮は倉井を見据えた。

「倉井梨奈。あなたは高校一年の時、私をいじめたのは覚えているよね」

 野宮の言葉に倉井の表情が暗く沈痛なものに変わった。

 それを見て野宮は追い討ちをかけるように厳しい声で続けた。

「隠れてクラスに私の悪口を吹聴し、いじめを扇動した。それにあなた自身も私の口では言い表せないほど酷いことをした。その仕返しを──」

「ごめんなさい!」

 突然、倉井が話を遮って頭を下げた。金色の髪が重力にしたがって垂れる。

「なっ!」

 不意打ちの出来事に野宮が声をつまらせた。この状況を理解するのに戸惑っているみたいだ。

 僕も状況を飲み込むのに数秒要した。

「わざわざ待っててもらったのは、その話がしたかったんだ」

「えっ?」

 倉井がさらに野宮を混乱の淵に追いやった。

 しかし倉井本人はそんなこと気づきもせず、ただ俯き加減で語り出した。

「私も高校辞めてから今までいろいろあったんだ。虐げるほうから虐げられるほうになったっていうか。そこで気づいた。優月に酷いことしてたって」

 顔をあげた倉井の目には薄っすらと涙が出ていた。

「でも許してもらえるなんて思ってない。だから──」

 倉井は精一杯にいうと両手を広げた。

「優月も仕返ししていいよ。そのために来たんでしょ? ほら、昔あたしがしたみたいに殴っていいよ」

 殴っていいよ、という言葉に野宮は反応しなかった。彼女は唇を噛んだままじっとしている。ただ拳だけが心情を表すかのごとく強く握りしめられているだけだった。

 しばらく誰も声を出さなかった。夜の虫の声が、川の流れる音が、遠くにかかる橋を通過する車の音が辺り一面を覆った。

「……んで」

 沈黙を破ったのは濡れた野宮の声だった。

「なんで反省なんてしてんの。ねぇ、なんで」

 野宮の問いに倉井は「ごめん」とだけ答えた。

「悪者はずっと悪者のままでいて欲しかった。反省なんかされたら仕返しする私が悪者みたいじゃん……」

 スン、と鼻をすすって野宮は続けた。

 野宮の瞳も涙で覆われていて決壊寸前だ。

「あなたは謝ることで気持ちの清算が済んで満足でしょ。でもずっといじめられ続けた私はどうしたらいいの? 傷ついた私の気持ちはどうなるの!」

 最後は叫ぶといっていいほど声を張り上げていた。すべてを出し尽くすと野宮は顔を手で覆って地べたに崩れ落ちた。覆った手の隙間から嗚咽が漏れてくる。

 僕は野宮の隣にしゃがみ込むと慰めるように彼女の肩を抱いた。

「野宮、大丈夫だ」と肩をさすっても返ってくるのは嗚咽ばかりだ。

 倉井を見上げると彼女も心配そうに、でもどうしたらいいか分からないのか呆然と野宮を見下ろしていた。

「悪いが今日はここまでみたいだ」

 僕がいうと倉井は「そうですか……」残念そうに呟いた。

 それからカバンからメモ帳を取り出すと何かを書いてペリっとページごと破った。

「これ、あたしのメアドと電話番号。罪滅ぼしじゃないけど、何か、あたしに出来そうなことがあったらいつでも連絡して」

 差し出されたメモに野宮は目もくれず泣き続けている。仕方がないので代わりに僕が受け取った。

「分かった。ありがとう」

 倉井はすまなそうに一礼すると僕たちに背を向けて自転車へ戻った。

 次の瞬間、座り込んでいた野宮はカバンから光るものを取り出すと、勢いよく地面を蹴り倉井の方へ駆け出した。手に持った光るもの、それは月明かりが反射した包丁だった。

「野宮、やめろッ!」

 間一髪、僕は野宮に手を伸ばして腕を掴んだ。

 背後の騒ぎに振り返った倉井は野宮の手に持つものを見て竦み上がった。

 僕は倉井に向かって「シッシ」とジェスチャーを送った。

「君は早く行って!」

 倉井はうなずくと「ありがと」と自転車に飛び乗り去っていく。

 一方で野宮は腕を振り解こうと強引に引っ張る。

「離してください! 止めないって言ったのになんでそんなことするんですか!」

「だって! これはやり過ぎだろ!」

「あいつは私の心を滅多刺しにしたんですよ。だから仕返しに体を滅多刺しにしてあげるんですよ!」

 まるで当然のことだと言わんばかりの口調だ。

 僕は野宮の両肩を掴んで向き合った。彼女の体の小刻みな震えが腕を伝ってくる。のぞき込んだ瞳はまだ濡れていた。

「彼女は反省してるんだぞ!」

「だからなんです? 反省したらすべて許されるんですか? じゃあ被害者の気持ちはどうなるんですか?」

「だからって、やっていいことと悪いことがあるだろ」

「なんですか。偉そうに説教ですか。友達もいないくせに」

 槍のような言葉が僕の心を突き刺した。本当に刃物で刺されたように胸のあたりが痛く重い。

 ダメージが意外にも大きくて、咄嗟に反論の言葉が出てこない。

「野宮だっていないだろ!」

 やっとの思いで絞り出した必死の抵抗に野宮は「プイッ」とそっぽを向いた。

「私はいないんじゃなくて、作らないんです。初めから独りでいることを選んだんです。あなたみたいに無様に裏切られて独りぼっちになったじゃないです!」

 不愛想で突き放すような口調で言い放った。

「…………」

 本当のことだけに何も言い返せない。

 それにしてもひどいと思う。僕だって石山の件は完全に立ち直った訳ではない。なのに治りかけのケガを攻撃するようなマネをするなんて卑怯だ。

 閉口したままの僕を、野宮は怒りと涙で赤く充血した目で睨みつけた。

「いいから早くこの手を離してください。痛いです」

 彼女は押さえられた肩の自由を取り戻そうともがいている。

 僕はそこで初めて手に力が入り過ぎていたことに気づいて、「わっ」と離した。

 自由になった野宮は肩をさすりながら、転がり落ちた通学カバンを拾い包丁をしまった。

「ホント、天原さんは、私のやることの邪魔ばっかりしてくれますね」

 語気を強めていう彼女に、僕は眉間にシワを寄せた。

「『ばっかり』って? 僕がいつそんなことをした」

 野宮と出会った時から今までのことを思い返してみても感謝されることはあっても責められるいわれはないはずだ。

 そんな僕に野宮は「なぜ分からないのか」と言わんばかりに顔を歪め、じれったそうに話し始めた。

「したじゃないですか。忘れたんですか、私たちが初めてあった夜のこと。天原さんは自殺する私を止めたじゃないですか。私は死にたかったのにあなたに邪魔されたんです。それに今度は仕返しの邪魔ときた」

 野宮は「もううんざりです」と力を込めて言った。

「うんざりとは心外だ。あの場にいれば誰だって自殺を止めるし、今野宮がしようとしたことだって止めるのが当然だろ!」

 すると野宮は目つきを鋭くさせ、まくし立てた。

「当然、当然って、天原さんは、社会からドロップアウトしたくせに、社会規範は守るんですね。いいじゃないですか、どうせ私もあなたも死ぬんです。法を犯そうが関係ない」

「いや、大いに関係ある! 今、君が倉井を刺し殺したら、僕まで共犯者になるんだぞ! 完全犯罪で死体が見つからないならまだしも、こんなところで殺してみろ、すぐ発見される。それで僕たちは仲良く刑務所行きだ。そうなったら自殺なんてできないし、それより辛い刑罰が課されるだぞ! 僕の計画が大狂いだ!」

 僕が興奮気味に喋ると野宮は冷えた表情になって、つかつかと僕のもとに歩み寄った。そして、通学カバンから出したものを、サッと差し出した。

 それは僕の顔写真が入ったカード──学生証だった。

「そうですか、なら天原さんとはここでお別れです。学生証も返しますから、二度と私に関わらないでください」

 野宮の発言に僕は面食らった。

 彼女の〈やりたいこと〉がすべて終わるまで、僕を強制的に協力させるためのモノ質だった学生証。それを返すということは僕と野宮の関係も終わりを迎えるということだ。

「えっ……? 本当にいいのか?」

「はい。どうぞ受け取ってください」

 僕の目を見ていう彼女に、僕は恐る恐る手を伸ばして学生証を受け取った。

 どれほど頼んでも返してくれなかった学生証が今、僕の手の中にある。

「…………」

「これで天原さんは何をするも自由です。好きなことやってください。それと──」

 野宮は学生証とは逆の手にあったメモを僕から奪い取った。

「これは私がもらいますから、では」

「待ってくれ。本当にもうこれで終わりなのか」

 去ろうとする野宮の後ろ姿に思わず声をかけた。自分でもびっくりするくらい寂しそうな悲しい声だった。

「そうですよ。あなたが望んだことです。今、この時点から天原さんと私は何の関係もありません」

 振り返って、もう一度僕の目を見て彼女は言った。

 本来なら両手を挙げて喜ぶべきことなのに、ちっともそんな気分にならなかった。

 それから野宮は「さようなら」と言い残すと去っていった。

 遠ざかる彼女の背中が消えてからも僕はどうすることもできずに、ただその場に立ち尽くしていた。

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