第19話

 整備された芝生の原っぱにはポツンと東屋が建っていた。僕たちはそこで腰を下ろした。眼前には琵琶湖が広がっている。さすが日本一なだけあって対岸が見えない。

「これで二人目も完了だな!」

 途中で買った本日二本目のオレンジジュースを野宮に渡した。

「まだですよ。これは事前準備、いわゆる『仕込み』ってやつです。本番はもう少しあと、告発書の効果が出た頃です」

 野宮はプルタブを開けるとゴクリと缶をあおった。

「ところで奥本教諭は野宮に何をしたんだ? 一人目の金澤はいじめだろ? 奥本教諭は……セクハラ?」

「天原さんってデリカシーないんですね。私がセクハラだって言ったらどうするんですか」

「え、そうなの?」

 一瞬、全身の血液が凍った。まずいことを聞いてしまった。

 しかし、野宮は「ま、違うんですよね」とおどけた。

 僕は野宮の答えにつんのめってしまった。違うんかい!

「奥本はですね、私が一年の時の担任だったんです。その頃から私はいじめられていたんですけど、そんな私を彼は見捨てるどころか、自分も一緒になって生徒と同じことをはじめたんです」

「いじめってこと?」

 僕が問うと野宮は頷いた。

「奥本は私に対して他の生徒より厳しく接してきました。授業中、あくびをしただけで怒鳴りつけられ、私がどれだけ不真面目な生徒かクラスメイトの前でクドクドとあげつらうんです。他にも些細なことで私を叱るんです。それに呼応して生徒たちも不真面目な私への罰という大義名分のもと堂々といじめをするようになりました」

「そういえば人間は自分より弱い存在を差別することでコミニュティを安寧に保っている、という話を聞いたことがある」

「きっとそれです。奥本は私を自分のクラスの穢多非人にすることで教室内の秩序を安定させようとしたんです。だから私は自分の関係ないことでも怒られたし、やってもいないことの犯人にもされました」

 野宮の膝の上に置かれた拳がスカートの生地を握りしめた。

「それで仕返ししようと……」

 僕が言いかけたところで、彼女は「それだけじゃないんです」と口をはさんだ。

「私、ある日、奥本に直訴しに行ったんです。私ばかり叱られるのはおかしいんじゃないかって。するとあいつは私を誰もいない面談室に連れて行きました。そして私の手をそっと撫でながら、いやらしい目つきでこう言ったんです。『俺は常に生徒とウィンウィンの関係でいたいんだ。もし俺が君への態度を改めたら、君は俺に何をしてくれるんだ?』って」

「それって……」

 言葉が出なかった。生徒にそんな要求をする教師がいるなんて。

 ジュースで喉を潤すと野宮は続けた。

「その時、私分かっちゃったんです。奥本が私に求めているものを。だから私は断りました。すると次の日からの奥本の態度はさらに酷いものになりました」

 野宮の瞳が濡れていた。虹彩が揺れている。

 まだ話し続けようとする野宮に僕は無理矢理ストップをかけた。

「もういい。もうそれ以上、辛い過去を思い出さなくていい」

 そうですか、と目元を拭う野宮に僕は何を思ったのだろう。気がつくと小さい子供をあやすように頭をポンポンと軽く撫でていた。

 こうしていると、まだ小さい頃、泣き虫だった妹をあやしていたことを思い出す。今は反抗期真っ盛りでこんなふうに頭を撫でることもなくなったが。

「……私を子供扱いしないでください」

 涙にしめった声で野宮が抗議する。

 はっとして僕は「ごめん」と手をどけた。

「僕にも泣き虫の妹がいたから、つい」

「優しいお兄さんで、妹さんは幸せですね」

「どうだろう。中学生になったぐらいから反抗的になって、励ましてやることもなくなった」

 ふと、僕が死んだら家族がどうなるか頭をよぎった。みんな悲しんでくれるだろうか。

「妹さん、今いくつなんですか」

「今年高校一年生になった。野宮が高二だから一つ下だな」

 野宮は一瞬、顔に悲しげな影を漂わせると、すぐに表情を作った。

「きっと照れてるんですよ。嬉しいって正直言うのが恥ずかしい年頃なんです」

 オレンジジュースを飲み干すと野宮は勢いよく立ち上がった。

「さ、そろそろ帰りましょ」


 帰り道の途中、野宮は「学校の方にもバラ撒きたいので」と高校がある駅で降りていった。

 自宅と職場であんなビラをばら撒かれたらいくら悪徳教師といえどもひとたまりもないだろう。しかも、野宮曰くこれは「仕込み」だそうだから本番ではさらにえげつないものが待ち構えているに違いない。

 アパートに戻ると外階段の前で加賀さんに出会った。

「どうでした? 娘さんと」

 僕が問うと、加賀さんは苦笑いをしながら答えた。

「うむ、まずまずかな。娘はあんまり私のこと好きじゃないみたいだ。今度、近くで娘が好きなバンドのライブがあるからチケットまで取って誘ってみたんだけど、『友達と行く予定だからいい』って断られちゃったよ」

 加賀さんは上着のポケットからチケットを二枚取り出した。

 券面には「アントリア」と記載されている。

「『アントリア』じゃないですか!」

「知っているのかい?」

 加賀さんは意外そうに驚いた。

 アントリアといえば若者を中心に人気があるスリーピースバンドだ。僕も新譜は必ずCDで買っている。

「はい。僕もよく聴きますよ」

 そう答えると加賀さんは、手にしたチケットをじっと見つめてから顔を上げた。

「若い子向けのバンドみたいだし、おじさん一人で行くのは恥ずかしいからあげるよ。この前、言っていた友達とでも行くといい」

 チケットを差し出す加賀さんに「そんな、高価なものですし」と遠慮した。

 本当はくれるというなら欲しかったけれど、ライブのチケットなんてそう安いものじゃない。そのうえ二枚もだ。貰うのはなんだか申し訳ない。

 それでも加賀さんはチケットを僕の手に握らせた。

「こういうのは好きな人が行くに限る。私が行くよりチケットの有効活用だ」

「……ありがとうございます」

 加賀さんは戸惑っている僕の肩をぽんと軽く叩くと階段を上っていってしまった。

 なんてことだ。図らずしも保留にしていた〈やりたいこと〉の『ライブに行く』が叶えられてしまった。

 遠ざかっていく加賀さんの背中に僕はお辞儀した。

 加賀さんには実家に帰った時にお土産でも買って、お礼に渡すことにしよう。

 思いがけない嬉しいプレゼントに心躍らせながら帰宅した。

 ここを出た数時間前には予想もしなかったことだ。

 こんなこともあるんだなぁ、と貰ったばかりのチケットをデスクに置く。

 その時、思い出した。

「あっ! パソコン!」

 ノートパソコンを野宮に貸したままだったのだ。ノートパソコンは今も野宮の通学カバンの中にある。

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