4.二人目
第17話
翌日、野宮は突然うちにやってきた。
テレビを見ていたら、インターホンが鳴った。友達や知り合いがいない僕には、訪問客の心当たりがない。どうせ、勧誘や宅配便だろうと外に出てみると、そこに制服姿の野宮がいたのだ。
なぜ彼女が僕の家の場所がわかったのか驚いたが、すぐに個人情報をすべて握られていることを思い出した。
「どうしたんだよ。なんか用か」
「パソコン借りに来ました」
そういえば昨日、そんな話をしたような気がする。でも来るなら来るで、事前に連絡が欲しいものだ。別に部屋の中に見られて困る物はないが、いきなり来られるとびっくりする。それにもし、僕が出かけていたらどうするつもりなんだろう。
そう非難すると、野宮は「すいません、癖なんで」と受け流した。
そして、無遠慮に部屋に上がって、辺りをジロジロ見はじめた。
「それより、パソコンはどこですか?」
「……そこのデスクの上にノートパソコンがある」
顎先で部屋の隅を指した。
それよりって……。僕の都合はお構いなしか。相変わらず自己中心的なやつだ。この性格で、よく親戚の家に居候させてもらえているな。
昨日は野宮の現状を聞いて同情したが、もしかして家でも大して遠慮はしてないんじゃないか?
野宮はノートパソコンに向かい作業を始めていた。
恐る恐る覗き込むと、画面には先日撮影した奥本教諭の密会シーンが表示されていた。
「この映像をどうするんだ?」
「生徒の顔にボカシを入れたり、その他諸々見やすいように編集していつでもネットにアップできる状態にします。それから決定的瞬間を静止画にして告発書を作って、奥本の家の近所にばら撒いてやるんです」
スイッチが入ったみたいに野宮は意気込んだ。
だが残念なことに僕のパソコンにはそんな上等な編集ができるソフトはインストールされていない。そのことを野宮に伝えると、彼女は「全然大丈夫です」と余裕の笑みを見せた。
「今どきモザイク機能やトリミング機能があるフリーソフトはいくらでもあります」
彼女はインターネットブラウザを立ち上げると検索窓に『動画編集 フリーソフト』と打ち込んだ。
表示されたページには数多のソフトが並んでいた。そのどれもが無料で使えるという。
そのうちの一つをインストールして野宮は作業を続けた。
「そんなに詳しいなら自分のパソコン、買えばいいじゃないか。安いのなら五万くらいで売ってる」
「私だって欲しいですよ。でも居候の身でねだることもできないし、自分で買ったとしてもこんな高価な物見つかったら勝手に売られてしまいます」
「君のことをよく思って無くてもそこまではしないだろ。だって犯罪だよ、それ」
肩を揺らしてハハハっと大袈裟に笑った。ところが野宮は何かを堪えるように下唇を軽く噛み、じっとしていた。
「…………」
「……実際にやられたの?」
そう訊くと、野宮は無言でうなずいた。
「売ったお金は?」
「世話代だって親戚の懐に入りました」
「いくら居候の身だからって! 警察には行ったのか」
首を振ってから野宮は答えた。
「そんなことできるわけないじゃないですか。警察に行ったことがバレた時点で追い出されます。そうなったら私は住まいをなくすんですよ? だから居候先の人を刺激しないように自衛しながら暮らしているんです。もちろん高価な物も持ちません」
「……なんか、ごめん」
僕が謝罪を口にすると野宮は「気にしてないですから、いいですよ」と作業を再開した。
野宮の作業が終わるまで邪魔にならない場所で読書をして過ごすことにした。本棚からお気に入りの一冊を取り出した。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だ。
ジョバンニとカムパネルラのあの世への旅路が儚く悲しい。でもそこが好きで何度も繰り返し読んでいる。
ページを開いて読み始めてしばらくすると喉の渇きが気になってきた。何か飲み物が欲しい。アイスコーヒーでも入れようかと思ったが、せっかく野宮が来ているんだ。外で何か買ってくるとしよう。
野宮に一声かけて、近くの自販機まで出向いた。
外は八月らしくかんかん照りで、耳障りに鳴きわめく蝉の声すら、小休止に入っている。
自販機まで来ると、野宮用にオレンジジュースを、自分用には缶コーヒーを買った。
ぬるくなる前に帰ろうと踵をかえすと、道の向こうから熱気に揺られながら黒い細長い物体がよろよろと近づいてくる。
近くまで来て、その人影がスーツを着た加賀さんだということに気づいた。いつもよれよれのシャツを着ているからパリッとキメたその姿は別人のようだった。
「こんにちは、お仕事ですか」
「いや違うよ。これから離れて暮らす娘に会うんだよ」
加賀さんは照れ臭そうにいった。
「娘さんに?」
「うん。妻と離婚してから一か月に一回だけ、会うことが許されているんだ」
加賀さんが離婚していたということ以前に結婚して娘もいることに驚いた。彼くらいの年齢なら子供は、僕か野宮くらいの年齢だろうか。
「それでスーツなんですか」
「別に服装はなんでもいいんだけど、私の服はどれもよれよれだから。一張羅はこれだけなんだよ」
そういってスーツの襟を整えた。
楽しんで来てください、というと加賀さんは嬉しそうに返事をして去っていった。
部屋に戻ると、野宮は相変わらずパソコンと向かい合っていた。
「飲み物、買ってきた。野宮の分はオレンジジュースだ」
振り向いた彼女にオレンジジュースを投げて渡した。それを受け取ると嬉しそうに封をあけた。
「私の好み、覚えていてくれたんですね」
「僕は記憶が良いほうなんだ」
おどけていうと野宮はクスッと笑ってパソコンへ向き直った。
僕は缶コーヒーを飲みながら、彼女の背中越しに画面を覗いた。
「進捗はどうだ?」
「ほぼ終わりましたよ。あとは印刷するだけです。プリンターはどこですか?」
「野宮、残念だけど、うちにはプリンターがないから印刷はできないよ」
僕が申し訳なさそうに言うと、野宮は信じられないというように目を見開いた。
「えっ! 今どきプリンターがない家なんてあるんですか! じゃあ、普段どうしてるんです? コンビニとかで?」
「違うよ。大学のプリンターを使っているんだ。学生は制限枚数以内なら無料で使えるからね」
缶コーヒーを一口飲んだ。缶についた結露が手のひらについて持ちにくい。
「なら、行きましょうよ」
「どこに?」
僕は嫌な予感がして、あえて首を傾げた。
すると野宮はノートパソコンのモニターをパタンと閉じた。
「どこって、天原さんの大学に決まってるじゃないですか」
「嫌だよ。もうあそこには行かないって決めたんだ。〈やりたいこと〉リストの一番目だよ!」
机の隅に落ちていたリストに手を伸ばし、野宮の顔に突きつけた。
そこには先日、悩みに悩んだ〈やりたいこと〉が書き込まれている。一番初めの項目を指差した。
「ほら! 『大学に行かない』って買いてあるだろ。だから行かない」
「子供じゃないんだから……」と野宮はリストを受け取ると、まじまじと見た。
「そもそも天原さんはなんで死のうと思ったんですか? 私と違って家族はいるし、大学にだって通えてる。何不自由ないじゃないですか」
何を贅沢な、と彼女は眉を下げた。
もしかしたら、他人から見れば僕の今までの人生はなんてことないのかもしれない。でもこの人生を生きる僕にとっては絶望しかないのだ。「自分より恵まれていない人もいる、だからがんばろう」なんて考えられる思考回路を持ち合わせているなら死を選んでいない。それに絶望の許容量なんて人それぞれだ。恋人にフラれただけで死ぬ人もいれば、災害ですべてを失ってもめげずに生きる人もいる。
僕は彼女になぜ死のうと思ったのか話した。子供の頃から自分は特別な人間になると信じていたこと。そのせいでいじめられたこと。しかし現実はそれと反対でそのギャップに絶望したこと。それで酔っ払いに絡まれたことで吹っ切れて、すべてを終わりにしたくなったこと。約一ヶ月後に迫る二十歳の誕生日にこの世を去ることにしたこと……。
残り少なくなった歯磨き粉を絞り出すように、ポツリ、ポツリと語った。その間、野宮が口をはさむことはなかった。ただ時折、眉間にシワを寄せたり、唇を固くさせながら黙って聞いていた。
すべて話し終えるとようやく彼女は口を開いた。
「天原さんの気持ちもわからなくはないですが、やっぱり贅沢だと思います」
野宮の凛とした声が、窓から入ってきた生暖かい風に乗って部屋中に散らばった。さらに彼女は続けて冷たく言い放った。
「だからって死ぬのを止めたりはしないですけどね。天原さんの命は天原さんのものですから、好きにしてください」
「言われなくても好きにするさ。でも僕の気持ちを少しでも分かるなら、大学へ行くのはなしってことで……」
もみ手で野宮へすり寄った。しかし彼女はそれをぴしゃりと跳ね除けた。
「それとこれとは違います。あなたには私の〈やりたいこと〉を手伝う使命があるんです。自分の〈やりたいこと〉と相反することだったとしたら、私の方を優先してください。それに授業を受けろと言ってるわけじゃないんですよ? 大学構内に入ってプリントするだけで終わりなんですから、それくらい我慢してください」
それから野宮はノートパソコンを自分の通学カバンに詰めこむと立ち上がった。
「さ、行きますよ」
「えー。今から?」
ただでさえ行きたくないのに外は猛暑だ。出かけるのが嫌になる。
しかし野宮は僕の抗議をものともせず、玄関へ向かった。
「天原さんには時間がないんでしょ? 思い立った時に行動しないと一ヶ月なんてすぐ来ちゃいますよ!」
「……分かった。今行く」
だてに半月も一緒に行動していない。野宮の性格を考えたら、僕がどれだけ拒否したとしても、行く以外の選択肢が出るようには思えない。結局、僕が従うしか道は残されていないのだ。
ただ、さっき話したことでちょっとだけでも彼女が僕のことの理解を示してくれたのは嬉しく思った。
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