過ぎ去し日は未だ来ぬ月の思い出

真白(ましろ)

過ぎ去し日は未だ来ぬ月の思い出

 最高の推理小説を書くために自ら完全犯罪を計画し犯行に及ぶ。そんな小説を読んだ。

 俺は「経験したことがなければ書くことはできない」なんて思ってない。小説は日記とは違う。それでも経験がリアリティを生むのは間違いない。

 売れない小説家————出版したことがないので売ってない小説家だが————としてコンビニバイトをしてきた俺は、そこらの人気作家よりリアリティのあるコンビニ業務が書けるだろう。だがそれが何の役に立つというのか。俺が書きたいのは『とある売女とアルバイター』とか『コンビニバイトは電子マネーの夢を見るか?』ではないのだ。

 問題は俺が書きたいのは「SF」であるということだ。言うまでもなく、タイムトラベルも宇宙旅行も未来技術も経験したことなどない。もちろんそれだけがSFではないが、経験したことがあるSFなどSFではない。いや、それは言い訳だろう。世のSF作家は経験などなくてもリアリティのある物語を書いているのだから。結局のところ、俺の想像力と文章力が足りていないだけなのだ。

 だから、この物語はSFではない。俺の経験に基づいたただの日記だ。多少の記憶違いや脚色はあるだろう。日記にしろ経験談にしろ、他人に話すなら多少の嘘は混ぜるものだから。




 彼女との出会いを何と呼べばいいのだろう。

 偶然ではない。しかし、運命や宿命なんてものでもなく、意図的に仕組まれたものだった。

 大学を卒業し、就職もせず小説家の真似事をしながらバイトで生計を立てていた俺には悩みがあった。小説が書けない。いや、書いてはいた。しかしそれは、何番煎じかも分からないようなものばかりだった。平々凡々と生きてきた俺には、秀逸なアイデアも、劇的な物語も、華のある文章も生み出せなかった。

 その日、バイトで疲れていた俺は自炊する気力もなく、かと言って食べ飽きたコンビニ弁当の気分でもなかったので、家の近くのファミレスに入った。

「1名様ですか?」

 大学生とおぼしき店員が訪ねてきた。俺が答えようと口を開けた瞬間————

「2名です」

 背後から女の声が聞こえた。戸惑いながら振り返るとそこに彼女はいた。

 肩口で切り揃えたストレートの黒髪、陶器のような肌、切れ長の目をした美人。彼女は、戸惑う俺が声を出すよりも早く「どうしたの? 加賀美くん」と俺の名前を呼んだ。

 状況の飲み込めない俺をよそに、彼女は「行こうよ」と俺の手を取り歩き始めた。店員は怪訝な表情をしつつも、マニュアル通りに席を案内する。席についた後も何を言っていいのか分からず戸惑っていると、先に彼女が口を開いた。

「驚かせてごめんなさい。私は遠崎月といいます」

 彼女の言葉が引き鉄となり言いたいことが溢れてきた。しかし、何よりも聞かなければならないことがある。

「何で俺の名前を知ってるんだ?」

 彼女は俺のことを加賀美と呼んだ。加賀美は本名ではない。加賀美は俺のペンネームだ。まだ出版されたことのない、

「当然の疑問です。それにお答えするのは簡単なのですが、おそらく今は信じてもらえないと思います。だからまず、私の話を聞いてもらえませんか?」

 正直に言えば、俺はこの時点で密かな興奮を覚えていた。女性とまともに会話したこともない俺にとって、目を見張るような美人と二人で話すだけでも貴重な体験なのに、こんなシチュエーションは想像の範囲外だ。まるで物語の主人公にでもなったような気分だった。怪しい宗教の勧誘である可能性は捨てきれなかったが、好奇心が勝った。

「分かった。話してくれ」

 少し気取った言い方になってしまったが、主人公ならこんなものだろう。彼女は軽く微笑み話を切り出した。

「私は普通の人間ではありません————というよりも普通の存在ではありませんと言った方がいいでしょうか」

 どう見ても普通の人間にしか見えないが、いきなり普通の存在ではないときた。

「加賀美さんは4次元というものをどのように理解されていますか?」

「え?」

 突然の質問に驚きつつなんとか答えを返す。

「幅、奥行き、高さに直交する方向に座標軸を持つもの————でいいかな?」

「はい。では、時間とはどのような概念ですか?」

 これは難しい。哲学、科学、宗教など立場によって定義が違うし、同じ立場でも全員が共通の認識を持っていないだろう。

「そうだな……物事の変化や経過を認識するための概念。不可逆の性質を持つ事象————かな」

「なるほど」

 彼女は少し考える素振りを見せた。俺の答えは彼女を満足させられなかったらしい。

「まず前提として、私は学者ではありません。今からする話は私の経験に基づいています。実際にどうかではなく、私はそう感じているという話です」

 俺は頷き続きを促す。

「時間とは方向です。ただし4次元方向とはまた別の方向です。かといってこの世界が時間を含めて5次元であるという話ではなく、あらゆる次元の方向とは別の、空間と直交する方向なんです。私は4次元までしか知覚できませんので、この世界が何次元なのかはわかりません。少なくとも、時間は空間とは違う方向を持っているということです」

 段々と話が胡散臭くなってきた。彼女は4次元が知覚できるというのか。俺の表情を汲んでか、彼女は少し困ったような表情で言った。

「そうですね。まず、私が4次元の方向と時間方向の移動ができることを証明します」

 俺はまだ彼女の言うことを信用していなかった。当然だ。いきなり私は4次元空間を移動し、時間移動もできますなんて言われて信用できるわけがない。しかし、それと同時に言い知れぬ期待感があった。この物語のような展開がそうさせたのか、それとも彼女の美貌のせいか。俺は息を呑み彼女の言葉を待った。

「ただその前に。まず食事にしましょう。お腹空いてますよね?」

 彼女の言葉に俺のお腹が答えた。




「証拠を見せると言いましたが、ここでは人目もありますし、あまり派手なことはできないので————」

 食事を終え、一息ついたところで彼女は切り出した。

「とりあえずはこんな感じです」

 言いながら彼女はテーブルの上で右手を水平に動かした。それを何と表現すればいいのか。俺の目には、彼女の手が一瞬消えたようにも、増えたようにも見えた。瞬きはしていない筈だ。しかし、気がつけばテーブルの上には紙が、彼女の右手にはペンが握られていた。

「この紙とペンは4次元方向————仮にW軸と呼びましょうか————W軸をズラして置いてあったものです。それを加賀美さんと同じ座標に持ってきたので見えるようになったわけです」

 手品————ではないと思う。ペンはともかく紙の方は折り目もないA4サイズのコピー用紙だ。隠し持てる物じゃない。何より、本当に突然現れたのだ。まるでアニメーションの途中に書き加えたかのように。だが、まだ信じるのは早計だ。俺の分からないトリックで出しただけかもしれない。

「良くて半信半疑ですか? もちろんこれだけで信用してもらうつもりはありません」

 彼女は俺の考えを見透かすように言った。

「問題は時間方向なんです。お見せすることができない————というより、私が今から過去に行ったとしてもW軸方向に移動した時と見た目が変わらないんです。加賀美さんの目には私が突然消えたようにしか見えませんから。何より

 時間移動は見せられないということか。俺は少し残念な気持ちになった。4次元方向に移動できるだけで十二分に常識外ではあるが、やはり時間移動は魅力的だ。

「まずは私が考える、時間とは何かについてお話しします」

 どうやら時間についての講義が始まるようだ。彼女は紙に1本の直線を引き、左端に「過去」、真ん中に「現在」、右端に「未来」と書き込んだ。

「この線を時間軸とします。私たちが今居るのはもちろん現在です。そしてこの現在は未来方向に常に一定速で進んでいます」

 ここまでは多くの人がイメージしているだろう時間の考え方だ。

「この速度は空間に於ける光速度のようなものです。それ以上速くも遅くも移動する事ができません。だから私は未来に行くことができません。現在を追い抜くことができませんので。そして1時間過去に行くためには1時間掛かります」

「待ってくれ。それってつまり————」

「はい。過去には戻れますが、現在に戻ってくることはできません。時間移動をお見せできない一番の理由はこれです」

 彼女は少し困ったように微笑んだ。彼女は時間移動をしたことがあるはずだ。そして戻れなくなった。自分が居たはずの時代に…………

「私が元々居た現在で、私がどういう扱いになっているのかは分かりません————おそらくは行方不明でしょうが————しかし、これでタイムパラドックスは起きません。私が過去を改変しても、その情報が現在に伝わることはないのですから」

 彼女は「現在」を丸で囲み、「過去」に向かって矢印を書いた。そして新たに「現在」を書き加え、今度は「未来」に向かって矢印を書く。線上に書かれた二つの「現在」。この二つが重なることはない。

 ここまでの話を全て信じた訳じゃない。だが俺は信じてもいい気になっていた。いや、騙されてもいいと言った方が正確かもしれない。

「つまり君は未来から来た。そして、未来の俺のことを知っているということか」

「その通りです。私が居た未来で加賀美さんは、ある小説で賞を受賞します。その小説はいわゆるタイムトラベルもので、まるで私を主人公にしたようなお話しでした」

「俺が君をモデルに書いたってことか?」

「いいえ、違います。それなら私はその事実を知っているはずです。私は小説を読むまで加賀美さんのことを知りませんでしたので」

 確かにその通りだ。彼女は過去にしか行けないのだから、未来の彼女は存在しない。俺が彼女をモデルに小説を書いたなら、その時点で俺は彼女と出会っていることになる。その時間から過去に戻ったとしても、時間軸上の未来は彼女の主観では過去だ。そこまで考えて新たな疑問が出てきた。

「君は過去の自分に会ったことはあるのか?」

「ありません。ただ、意図的に避けているので、会えるのか会えないのか、会った時に何が起こるのかは分かりませんが」

 確かに自分自身に会うのはあまり気持ちのいいものではない気はする。とりあえず、彼女がなぜ俺のことを知っているのかは分かった。次は俺に会いに来た理由だ。

「君は俺も時間移動ができるんじゃないかと考えたわけだ」

 多分これは正解じゃない。そう考えたとして、過去の俺に会いにくる理由がない。

「その可能性は考えました。私と加賀美さん以外の時間移動ができる存在の可能性も、ただの偶然である可能性も」

「結論は?」

 俺は半ば確信を持って訊いた。彼女は結論を得ていると。

「分かりません。亮くんは最後まで教えてくれませんでしたから」

 彼女は唐突に俺を本名で呼んだ。とても親しみのこもった、呼び慣れた言い方で。不意打ちに呆けた顔をした俺を、彼女は楽しそうに見つめていた。

「私は過去の自分に会ったことはありません。でも、亮くんには何度も会っているんです。何度も、何度も、何度も何度も何度も…………」

 彼女は微笑みながら泣いていた。

「ごめんなさい……いつも泣くつもりはないのに……でも……やっぱり…………」

 溢れた涙が呼び水になったのか、彼女は堰を切ったように泣きだした。俺は慌ててハンカチを探したが、そんな気の利いたものは持っておらず、テーブルにあったペーパーナプキンを束で渡した。彼女は目を丸くして、泣きながら笑って涙を拭った。

「亮くんの小説を読んで、私は居ても立っても居られなくて、すぐに連絡を取りました。最初は仲間がいるのかも知れない、私は一人じゃないのかも知れないという気持ちでした。でも、亮くんに会って、話をして、私のことを打ち明けて…………いつの間にか、私は亮くんに惹かれていて、仲間のことなんてどうでもよくなっていました」

 彼女は遥か昔を懐かしむように未来を語った。

「でも、亮くんは私に真実を伝える前に死んでしまったんです」

 鼓動が跳ねた。

「初めは交通事故でした。私を庇って…………余りにも唐突で…………亮くんとの時間が短すぎた。だから私は過去に戻ってやり直すことにしたんです」

 彼女は何を言っている。

「初めに出会った時よりも少し前に戻って、出会いからやり直しました。次は病死でした。私はまたやり直すことにしました」

 思考が追いつかない。

「次は老衰でした。とても長く、一緒に居ることができました。それでも私は満足できませんでした」

 鼓動が速くなるにつれ思考は鈍くなっていく。

「亮くんが死ぬたびに、出会った時よりも少しに前に戻って繰り返しました。亮くんとの時間が長ければ長いほど、会えない時間が長くなるんです。今回は38年と176日掛かりました」

 彼女は再び溢れ出そうとする涙を堪えながら微笑んだ。少しずつ思考が戻ってくる。渇いた喉から掠れた音を絞り出す。

「待ってくれ……そんなことはありえない……だって君は————」

「私、不老不死なんです」

 俺の疑問に先回りする様に彼女は答える。

「試したことはないので本当に不死かは分かりませんが、少なくとも不老ではあります。少なくとも10万年は生きていますから」

 10万年————途方もない時間だ。彼女はその時間の内、一体何万年を一人で過ごしたというのか。

「亮くん。また私と生きてください。大丈夫。亮くんのことなら誰よりも知っています」

 喉が張り付き声が出ない。文字通り心臓が張り裂けそうなほど鼓動は速く強い。しかし、不思議と気持ちは落ち着いていた。俺はゆっくりと、だが確かに頷いた。

「頷いてくれるって分かってました。もう何度も繰り返したことですから」

 断れるわけがない。こんな展開を待ち望んでいたんだ。自分が主人公の物語のような、現実を打ち破る展開を。そのヒロインがこんな美人なら文句の付けようがないじゃないか。




 彼女との生活は平凡なものだった。俺は彼女をモデルに小説を書き、賞を取った。人気作家には成れていないが、作家として生活するだけの収入は得られるようになった。彼女は確かに俺のことをよく知っていた。食べ物の好み、音楽の趣味、好きな芸能人、行きつけのお店。結局、4次元の移動はファミレスで紙とペンを出した以外に見てはいない。今となってはそれすら本当だったのか分からない。ひょっとしたら俺は誇大妄想を抱いたストーカーに捕まっただけなのかも知れない。しかしそれでいいのだ。

 この物語はSFではない。俺の経験に基づいたただの日記だ。多少の記憶違いや脚色はあるだろう。日記にしろ経験談にしろ、他人に話すなら多少の嘘は混ぜるものだから。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

過ぎ去し日は未だ来ぬ月の思い出 真白(ましろ) @BlancheGrande

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ