第11話 「イオ大亂」(12)

 クロシアがエウラリーアを占拠して十日後――イオとクロシア公領を隔てるクロア湖を船で横断したクロシア公ヴラードが着到した。

 占拠以来、少数の精鋭で周辺の鎮圧に眼の回るように多忙であったアルゴも、ヴラードを迎えるために、その日はエウラリーアへもどっていた。

 エウラリーア周辺の鎮圧は、表向きは順調であった。クロシアの兵数は千五百程度であったが、王と王弟との争いに兵を出した周辺の領土に、クロシアの精鋭に抗する術がないためである。

 多くがエウラリーアへ親族を人質に差し出すことにより、領土の保全をはかった。反抗心もあるはずだが、のど元に剣を突き付けられれば、従わざるをえない。

 クロシアも、ひといきにカスバル全土を占拠する考えはない。まずはカスバルの都とも云うべきエウラリーアを抑え、懐柔と調略、そして武力により占領を強化、拡大していく方針である。内乱ではっきりと浮かびあがった両族の不和を利用することも、当然のようにその方策のひとつとして期待されていることであろう。

 クロシアからの増兵は、遺漏なく進められている。カスバルの諸侯やアンドレードの首脳たちが歯噛みをしても、もはや手も足もでないほどに、わずかな間にエウラリーア周辺のクロシア化は強固なものへと変わりつつあった。

 クロシア公ヴラードの滞エウラリーアは、一晩のみである。明日の朝には、すでに船上の人となっている予定だ。問題は山積で、ときは黄金より貴重である。半日以上かけてのしかかる諸事をどうにか取りまとめた後、のこりの懸案の元へアルゴはみずから案内した。

 いまだ緊張の気配が充満する回廊を、主従二人のみの歩みは柔弱のかけらもない。

「リンドレイめは、どういたしました?」

 憶いだしたように、アルゴが主君に訊ねた。

「領土と別の名を与えた。邦地から出ることはない」

 ヴラードの回答は、端的であった。

「それがよいでしょう。やつはカスバルの恨みを買いすぎました。カスバルに一歩でも脚を踏みいれたら、息を吸う間もなく八つ裂きでしょうな」

 皮肉ではあったが、舌先ひとつでカスバルを手に入れたあの奇妙な男のことを、さげずむつもりはない。彼のしたことは、一軍を動員しても成し遂げることができないほどのことだ。アルゴは日銭かせぎの雇われ兵ではない。損耗なく国を奪うことの価値を知っている。

 やがて主従は、カスバル大公ユリウスの妃イシュリーヌが押しこめられている間へ至った。

 部屋の扉は鎖で封鎖されており、五名の兵士が番をしている。屋内の窓もすべて封印され、逃げだす術はない。

 威風を放つアルゴと、背丈はさほどではないが、もっと大きなものがその体躯に圧縮されたようなたたずまいを持つ峻厳の人である主君の登場に、輪番の兵士は大仰なほどに身体を固くした。

 アルゴの命で、部屋の封印は解かれ、扉は開かれた。

 その音を耳にしたはずであるが、窓のそばにたたずんでいたその虜囚は、しばし振りかえろうともしなかった。ヴラードもアルゴも、急かなかった。

 やがてその女が、かすかに衣擦れの音をたて優美に見返った。

「イシュリーヌ大公妃殿下、クロシア公領太守ヴラードが目通りを所望いたしております」

 アルゴが麗人に語りかけるが、征服者をうつしているはずの漆黒の瞳には、何の感情の揺らぎもみとめられなかった。憤るでもなく媚びるでもなく、ただ無表情であった。

 たおやかな女であった。

 あでやかな女であった。

 アルゴですら改めて、しばし眼をうばわれた。

 これが子も産んだ三十路の女であろうとは、とても信じられない。

 いわゆる絶世――と形容される美女の範疇には入らないかもしれない。

 その容貌を形づくっているひとつひとつの造作は、とりたてて特別なものではない。切れ長の眼は明眸と評するにはやや陰が濃く、細すぎた。鼻梁はイオ人には珍しく高く、口元は朱唇皓歯と評するには豊かすぎであった。しかしそれらの部位が、彼女の貌の中におさまれば、まるであつらえたかのような絶妙な均衡で、イシュリーヌという佳品を生み出していた。

 そしてイオ人らしいやや浅黒い肌には、あやうげななまめかしさと、したたらんばかりの瑞々しさが、幾重にも複雑に層を重ねていた。

 月の処女と焔の妖女がひとつの肉体に同居している。

 クロシア公ヴラードもまた、虜囚たるその佳人を巖のごとくに凝視する。

 双眸は深遠である。その視線は揺るぎがたい硬玉のようであった。

 両の眼がそれぞれ、人の表層と深奥を見通すようであり、正面と同時に後背からも見られているような、誰も落ち着かない心持にさせられた。

 それでいて、常人より淡みをおびた薄茶の瞳は、ヴラードという人物の得体をまるで映しだすことはない。

 それを、魔眼――と畏怖をこめて人は云う。

 寡黙の人であった。

 ゆっくりと百を数えるほどの間、両者の視線は揺るぎもしなかった。

 屋内を痛いほどの沈黙が充満していた。

 と、不意に――

 アンドレードへ送れ――クロシア公ヴラードは厳然と命じた。

 ヴラードが虜囚に劣情をもよおしても、おかしくはない。征服者が敵方の婦女子をものにするのは、恥ずべき行為ではない。それだけの価値がある女である。だがクロシア公は、虜囚となったこの女を歯牙にもかけなかった。

 別に温情ではない。クロシアが望むのは、イオの、カスバルの混乱である。ユリウスの妃であり、ミルド族有力貴族アドモス公の娘を押しつけることにより、カスバルの怨嗟をクロシアからシナグ族へそらすだけである。

 しかしイオの都へ送られると聞かされた瞬間も、毛の先ほどの揺らぎもその女の仮面ような美貌に見出すことができなかった。動揺も安堵もなかった。自身の身の扱いが眼の前で定められていくというのに、彼女はみじんも感情をあらわにしなかった。

 美しい女ではあったが、それは人ならぬものを内包した美しさであり、アルゴには、それは尋常なものではないように感じられた。


* * *


「ユリウス殿下はキーブルを離れて北上いたしました。まだ殿下の影響が強いモルドーかフスに本拠を移すつもりでしょう」

 イオの宰相ベルンの言は、無感動であった。

 室内にはベルンの他、マリウス王、さらに三名ほどの重臣がいるのみであった。王のごくごく小さな私室である。その人数が座を占めれば、もう充満した感じとなる。時刻は深更。卓上の灯明のゆらぎが生み出す屋内の陰影は、密議の昏さの証しのようであった。

 ベルンの台詞に王をはじめ、誰も口をはさまもうとしない。

「殿下の軍からはカスバルの諸侯が離脱をしております。兵力としては、ずいぶんと衰えたようでございます。もはや殿下に、さほどの脅威はないと判断しても差支えないと思いますが――」

 ベルンはちらと王らを見やった。王は白々しい表情であった。

「ユリウス殿下の謀反などは、しょせんは氏族同士のこぜりあい。ですがその隙をつかれてエウラリーア一帯がクロシアに占拠されたこと、これは由々しきことでございます」

「殿下の側近がクロシアと内通していたとのことだ、東方の叛乱もそやつに扇動されたものであろう」

 重臣のひとりバイアレス公が苦々しげに口を開く。

「マリウスのやつめ、何たる不手際だ……クロシアの公使は、兆候に気がつかなかったのか?」

 吐き捨てるようなマリウス王の台詞であったが、ベルンは冷やかであった。

 クロシア公使は先日、強制的に国外退去された。イオはクロシアとの直接的な交渉の手段を失っている。クロシアは本気でカスバルへの拡大をすすめていく気構えである。

「同朋が殺し合いに興じている間に、いや、それ以前からクロシアは水面下で策略をすすめてきたのでしょう。リンドレイと名乗っていたその側近は、十年以上もおそばに務めていたとのことです」

 クロシアのエウラリーア占拠により、イオが失ったものの大きさはとてつもない。

 イオの豊穣の源と謳われる実り豊かな地力、さらにクロア湖やその北方のカニシアヌムの狭道をおさえ、西方のイーステジアへの門とも云うべき要衝の地が、まさにカスバルである。ミルド族の離反、貢納される租の減少、交易の停滞による国力の低下をまねき、さらにクロシアの侵攻の障壁を失いつつあるのだ。

 クロシアが占拠しているのはエウラリーア一帯のみ。カスバルの三分の一にも満たない。すべてのミルド族がなびいているわけではない。

 腰をすえられる前に追いだしたいのが一同の身を血を沸騰せんばかりの思いであるが、内乱により乱れぬいた今のイオにその力はない。屈辱の限りである。

「これだけの軍を動かすのであれば、クロシア側は相当の覚悟と下準備があるはずだ」

 重臣メンデス公が口をはさんだ。彼も王と王弟の確執に憂慮していた穏健派のひとりである。

「黒旗騎士アルゴを相手が率いる軍を相手に、しかも今も堅城エウラリーアを拠点としている、容易なことではない。さらに此度のクロシアの侵攻、ヌアールが加担している」

「確かにヌアールがこのような形で介入してくるとは想定外だったが……」

 うめくように云ったのは、モリス公であった。この場にいるバイアレスとともに、カスバルに対する強硬派の重臣である。

「だが、連中の目的はペルべスの支配だ。クロシアがカスバルに根を張れば、山の民どもが荒れる。それは、ヌアールも望まぬところだろう」

「確かに今のところ、クロシアの通過を黙認した他は目立った動きはないが……我らが両方面に眼を向けねばならぬ状況は変わらぬ、さらにユリウス殿下……」

「それは重々わかっておる」

 バイアレス公の言にうなずいたモリスが、主君へ向きを変えた。

「それゆえ陛下、これを契機にまずはユリウス殿下をはじめミルド族の反王家派を制圧し、国力を合一したうえでカスバルを奪い返す他には手はございません」

「それだけの国力が、今のイオにあろうか?」ベルンの台詞が怒気をはらんだ。「カスバル侵略のため、クロシアは十年以上という年月をかけてユリウス殿下に食いこみ、イオの内乱を陰で煽りたてた。東方の氏族ですら安定しているわけではないということが、はっきりとわかったはずだ。たったひとりの内通者のために、どれだけの犠牲をはらったと思っているのだ。甘い考えは捨てよ」

「クロシアの手筋は読める」メンデスも同調した。「ユリウス殿下を利用して我らをいがみ合わせ国力を分散させ、その間にカスバルの地固めをする腹だ。ユリウス殿下とは和を結んででも、地盤が固まらぬうちにクロシアに対処すべきだ」

「この事を招いたのは、ユリウス殿下の謀叛だぞ。これを放っておいては、ミルド族はますます離反する。そうすればクロシアと争うどころではない」

「まさに。ユリウス殿下の乱の方が焦眉の急だ」

「そのユリウス殿下を煽って、挙兵にいたらせたバイアレス公、モリス公、貴公ら強硬派の目算の甘さがこの始末なのだぞ。この期に及んで、まだ氏族の確執にこだわっているのか!」

 ベルンは声を荒げた。

「これはしたり、我らはことさらミルドの諸侯を煽ったわけではありませんぞ」

「いかにも、ユリウス殿下の叛意は我らにはあずかり知らぬところ。殿下の謀叛に対して厳しく処せよと云ったのは、国法にのっとって当然のことだ」

「笑止、ミルド族の排斥をもくろんだ貴公らの思惑を、知らぬ者などいない」

「ベルン殿、いかに宰相とはいえ、誹謗にもほどがあるぞ」

 名指しで非難された両者は、平然としていた。ユリウスの排除は王自身の隠しきれていなかった願望であり、彼ら強硬派は王の意を忖度したものである。それゆえ、彼らの動きは王の意に従っているお墨付きがあることから失策を厳しく追及される恐れはなく、それをわかっているベルンも直接王を問責することはできないため、表向きは重臣を非難するしかない。

 しかしさすがに、そのようなきれいごとですますことなどできないと、皆わかっている。

 ともすれば責任論に流れがちな、穏健派であるベルンらと強硬派であるバイアレス、モリスらの議論は不毛であった。

 しばし室内に、重苦しい沈黙がただよった。何かのきっかけで、とりかえしのつかない亀裂が彼らを傷つけかねない沈黙であった。

「ベルン、お主にはもうしばらく、宰相の地位にとどまってもらおう。今はお主の力が必要だ」

 マリウスが機先を制するように、先日のベルンの罷免をくつがえした。強硬派の両名の眼にわずかに不満の色が流れたのを、ベルンは視界の端にとらえた。

「御意にございます」

「いかような手立てがある?」

「ございません」ベルンは首を振った。「我々はクロシアと、勢力は衰えたとはいえミルド族の恩讐を背負ったユリウス殿下、同時に両面と争わなければなりません。今はミルド族の懐柔を徹底し、殿下の力を削ぎ、クロシアを抑え込む、とにかくそれしかございません」

「いかにも消極的ですな」

 バンアレスが不満げに云う。

「都合のよい解決策などない。クロシアは本気だ」

 ベルンはそっけなく云い、王に向きなおった。

「アレンビーではいまだマールが拠点を堅守しておりますが、モルがキーブルよりさらに西進して、リュベロンの古城に本陣を敷設したことにより殿下の軍は南北に完全に分断された形となります。これからはリュベロンをエウラリーア一帯、カスバルの北方と南方、三方睨みの拠点とすべきでございます。それにともない、アンドレードからの経路を整え、中継拠点としてのキーブルの強化も必要となってまいりましょう」

 ベルンは机上の地図を一箇所ずつ指し示しつつ、一同に説明する。眼光鋭く王を見上げ、念を押すように云った。

「長期戦を覚悟すべきでしょう」 


* * *


 イオの都アンドレードでの密議と、クロシア公ヴラードが王弟妃と対面したのは、偶然にも同じ夜であった。

 風のない夜であった。

 エウラリーアの王弟宮の一室から望むクロア湖はさざなみひとつたてず、満月の皓々たる銀光を映し、夜は雲ひとつない静謐の中にあった。

 王弟妃イシュリーヌが幽閉されている一室の窓も格子で封印され、無粋に区切られた世界を覗き見るのみである。

 天空と湖面と。窓辺にたたずみ、ふたつの趣の異なる月の光を浴びるその肌は、妖艶に輝いていた。湖面を映していたが、その瞳は漆黒の真珠であるかのように、みじんに揺れることはない。

 両の唇端がほんのわずかに上がっている。笑みであった。その唇がゆぅるりと動いていた。かすかに、かすかに、低くいくつかの単語が、素朴な調子に乗って窓外に流れ去っていく。

 歌であった。

 瞳には何の感情もなく、唇のみが律動の機構のようにかすかに動き、誰が耳にすることもない歌が、イシュリーヌから生まれ、切れ切れに夜に旅立っていく。

 月光のみがそれを知っている。だがその笑みの意味を知る者はいない。


* * *


 かくのごとくに――マリウス王と王弟ユリウスの確執によりはじまったイオの内乱は、ふたつの氏族のつながりを引き裂き、国土を疲弊させ、あげくにイーステジアの強領クロシアの侵攻を許した。

 イオの地は麻のように乱れ、建国以来の危機を迎えることとなった。

 黒曜暦六〇一年、イオ暦では一四五年の冬にはじまり、イオ大亂――と各国の年代記が記しているこの争いは、一年近くつづき、いまだ終息の気配さえみせようとはしない。


(第11話 了)

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