第6話 星の引力


わたしたちはこの地球ほしの上に生きている。

この大地に立って、空を仰いで暮らしている。

でも実際は、わたしたちは地球に“引っ付いて”生きているのだ。

この星は丸く、わたしたちが大地に“立っている”と思っていても、地球の反対側の人から見たら、わたしたちはこの星に逆さまになってぶら下がっているようにしか見えない。



わたしたちをこの星に引き寄せているのは、重力だ。

星の引力が、わたしたちをこの大地の上で生かしてくれている。

わたしたちだけじゃない、太陽も月も、地球の周りを回る人工衛星や宇宙ステーションだって、それぞれの引力でお互いに引っ張り合いながらそこにいる。

互いに引き合い、影響を与えながら。






「―――天野チヒロさーん。」


わたしを呼ぶ声にハッと我に帰って、受付へと向かう。


「お疲れですか?」

「いえ、ちょっと昨日あったことを思い出してて。」


病院の受付にて。

昨日の通話を思い出しながら待っていたので、ついうわの空になってしまっていた。


「じゃあ、これが今回の検査の結果表です。お大事に。」

「ありがとうございます。まあ、自分でも健康そのものなのは分かってるんですけど。」

「ええ、まあね。でもお気持ちはお察しします。どうしてもお母様が“心配”になるのは分かりますから……」

「そうなんですよねぇ。どうしても、こればっかりは……。それじゃ、どうもありがとう。」


今日は平日のわりに混んでいて、なんだか思ったよりも時間がかかってしまった。

わたしはSNS「アオイトリ」に、宙路そあとして呟く。


【病院に健康診断の結果を取りに行ってました。結果は……健康優良児だということが判明しました!】


健康診断……語弊がありまくりな言い方だがまあ、嘘というわけでもない。


「ふう。何ともなかったね。」

「ええ、よかったわ。」


待っていたお母さんに声を掛けると、心底安心したような表情が目に付いた。

気持ちは分かるが、普通の人に比べてずいぶんと大げさなことをしているのだろうというのは自覚している。

気が付けば、すっかりこの病院にも慣れっこになってしまった。

顔見知りになった受付の事務員さんに軽く会釈をして、わたしたちはその場を辞した。


「さて、私は昼から仕事だしこのまま帰るけど、チヒロはどうするの?」

「うーん。せっかくこんな街中まで来たんだし、寄り道していきたいかなって。」

「そう。分かったけど、あまり遅くならないようにね。」

「はいはい。」


一足先に、お母さんは車で帰っていった。

駅前のショッピングモールやゲームセンターや、楽しめるところはたくさんある。

電気屋さんに行って、配信用の器材なんかを見てみてもいいかもしれない。

そう簡単に買えるようなものはないだろうけど……活動を続けていった先の、いずれの目標として。





今日のこれからの計画に少し心を踊らせながらも、わたしの心の大半は別の方向を向いていた。



昨日の、めぐるちゃんとの通話。

彼女の口から出た言葉が、今もわたしの耳に残っている。




「もしもし、めぐるちゃん?」

「そあちゃん。ごめんなさい、いきなり通話かけて。」

「ううん。でもどうしたの?急にだったから驚いちゃった。」

「別に大した用事はないんだけれど……なんだか話したくなっちゃって。」


直前のやり取りでも、何となく悩んでいるような素振りが見えためぐるちゃん。

だから、どんな話になるのか身構えていたところはあった。

それでもその言葉を聞いた時には、さすがに耳を疑ってしまった。




「―――引退!?」


思わず素っ頓狂な声が出てしまう。


「あの、今すぐにじゃないですよ?いずれ……の話ではあるんだけど。」

「うん……びっくりした、すぐに辞めちゃうのかと思った。」

「ご、ごめんなさい。」


引退の二文字を聞いた途端、血が凍るような感覚が身体を走り抜けた。


「私、伸び悩んでるというか何というか……。前に来てくれていた人が来なくなったりとか、そういうのが目に付いたりするようになってしまって。そあちゃんはこのあいだのひかり先輩のコラボ以来リスナーさんも増えてきてるし、そういうのを見てると、私がこのまま続けてていいのかなって思って……」

「うーん、ついこの前まではあたしの方こそそんな風なことを考えてたんだけどなぁ。めぐるちゃんは話も上手いし物知りだし、声もかわいい上になんか落ち着く声色だしで、あたしに無いものばかりで正直羨ましいなって思ってるの、今でも。」

「うん……。でもそあちゃんだってかわいい声だし、元気で明るいし。愛されてるなぁ、いいなぁって思っちゃって。ダメですよね、私だってちゃんと好きでいてくれる人たちがいるのは分かっているのに。」

「ううん、ダメなんかじゃないと思うよ。お姉ちゃんだって、そういうことを考えることはあるって言ってた。きっと誰だって思うことなんだよ。」


仲間として、友達として、ライバルとして。

感じていた想いは一緒だったみたいだ。

話を聞く限り、そこまで真剣に引退を考えているわけではなさそうだった。

わたしだって、伸び悩んでいる間は引退を考えたことが無いわけじゃない。

しかし、口に出して誰かに言ったことはなかった。

その言葉が出ること自体、話題に上ることそのものが、わたしたちVライバーにとっては重い意味を持つのだ。



“引退” ―――それは、単にVライバーを辞めるということに留まらない。

部活の引退とかであれば、単に現役を退くということだけであって、表舞台に立つことはなくなっても環境や人間関係までもが変わるようなことはない。

だが、Vライバーの“引退”は、普通のそれとは話が決定的に異なる。



Vライバーとは、それ自体が一個の人格キャラクターである。

外見としての「モデル」があって、それを着て振る舞う「中身」がある。

決して、台本通りに動くアニメの登場人物でもなければ、黙ってキャラを演じる着ぐるみでもない。

“中の人”の感性や個性でもって、仮想バーチャル世界を生きる、替えの効かないひとつの人格なのである。

過去に大手のVライバーが演者を増やしたり“中の人”の交代を行い、非難に晒され炎上したこともあるのも、それを決めた人たちがこの事実を理解していなかったことが原因だろう。

Vライバーとは、「中身」まで含めて一個の人格なのだ。



だから、Vライバーの引退は即ちそのキャラクターの“死”を意味する。

引退してしまえば最後、そのキャラクターとは二度と会うことはできない。

モデルも“中の人”も、どちらも揃って再び“蘇る”奇跡でも起こらない限りは。





昨日はあの後、めぐるちゃんとはお互いのことを色々と話していた。


「私、これでも色々勉強したり、どんな話をしようって配信前に考えてたりしてて。どうしたらもっと楽しんでもらえるのかなって。ほら、来てくれた人数とか数字になって目に見えるものもそうだし、「あのリスナーさんいつの間にかいなくなってるなー」ってのに気づく時もあるじゃないですか。そういう時、やっぱりちょっとヘコみますよね。」

「だよね……!ずっと聴いててもらうのって難しい……。もちろんライバーとの相性ってのはあると思うんだけど、どうしたら聴いててもらえたのかなって、つい思っちゃう。」


活動への想い、ひかり先輩のこと、愚痴や打ち明け話。

友達としかできない、同じ身の上同士ゆえのいろんなこと。

“友達”っていいな、と、わたしは彼女と話しながら、相談を受けている最中としては少しおこがましいことを考えていた。

ここまで深く、素直に包み隠さずに話をしたことは、今までリアルのどんな友達ともなかった気がするから。




「私、あまり外を出歩けなかったから、みんなが「何が流行ってる」だとか「こんな商品知ってる?」みたいな話をしてても付いていけないんですよね。」

「そうなんだ。身体弱かったりするの?」

「うん、ちょっと。今はだいぶマシですけどね。出かけられないわけじゃないんだけど、あまり遠出すると家の人に心配をかけてしまうので。入院してた時期もあるから、昔から本ばっかり読んでました。下手すると、朝から晩までずっと本読んで過ごしてたかも。」


一日中、図書室に籠って読書に耽るめぐるちゃんの姿が容易に思い浮かんだ。


「へぇ……。まさしく文学少女っていうか。“IMAIR学園の図書委員”って、そのものズバリなキャラだったんだ。」

「あはは……はい。通ってるのは通信制の学校だから、実際には図書委員とかは無いんですけどね。」

「って、めぐるちゃんも学生だったの!?」

「そうですよ?高校生。え、私、そんなに歳取ってるように見えてたんですか?」

「ううん、そういうわけじゃないけど。そっか高校生か、一緒だったんだね。物知りだし、もしかしたらもう大人なのかもって、ちょっと思ってたから。少なくとも大学生くらいかなって。」

「そう……でも考えてみてくださいよ。大人になってるのに図書委員の高校生を名乗るのって、けっこうハードル高くないですか?」

「言われてみれば、それはそうかも……」


彼女が同じ高校生だと知って、正直ホッとした。

ネット上での付き合いは年の差なんて関係ないけれど、それでもやっぱり同年代の相手としか通じ合えないことだってあると思う。

一番の親友(と、少なくともあたしは言いたい)であるめぐるちゃんが同じ高校生だということには、やはり安心を覚えずにはいられなかった。




「それにしても、そあちゃんも高校生かぁ。そあちゃんは学校ではどんな風なんですか?」

「学校でのあたし?普通だし、あんまり面白いことは無いよ?学校なんて、毎日休みになったらいいのに。」

「あはは、そんなに勉強が嫌い?」

「勉強が嫌いっていうか……学校なんて、楽しいことって無くない?」

「そうかなぁ。先生の授業ってやっぱり分かりやすいし、友達とも会えるのって楽しそうですけど。」

「えー、やっぱメンドウなことの方が多いって。友達って案外気を遣うし、授業も退屈だし。いつも一緒にいる友達グループはあるけど、学校の外では遊んだりしないし……。」


なんとなく学校に行って、適当に授業を受けて、適当に駄弁って、たまに買い食いなんかして帰るくらい。

友達といっても、それこそなんとなく一緒にいるだけで、それが楽しいというわけでもない。

むしろ、下手に他の子と違うことを言ったり変わったことをしたりするとハブられそうで、一緒にいるのが怖いとさえ思うことだってある。

もし友達にVtuberなんてやっているとバレたら、何て言われるだろうか。


「でも、いつも一緒の友達がいるって羨ましいな。通信制だと、登校する日も多くないから友達ともあんまり会えないですから。私も友達と、もっとたくさん遊んだり話したりしたいなぁ。」

「実際のとこは、そんなに良いものじゃないんだけどね……。それに、一緒にいるからって、別に取り立てて遊んでるわけでもないし。昼休みに一緒にお弁当食べたり、たまに帰りに買い食いしたりくらいで。」

「それですよ、それ。少ししか登校しないってことは、そういうことができないってことですから。友達と毎日会えるのって羨ましい。通信制の場合だと自分で一人で勉強するしかないから、授業でみんなと一緒に先生に教わりながら勉強できるのだって、羨ましいと思います。」

「授業が羨ましいかぁ……正直そんなこと、思われるなんて思ったこともなかった。退屈だし、メンドウでしかなかったから。授業で楽しいのって、地学くらいかなぁ。」


聞けば、めぐるちゃんの学校は登校日はあまりなく、したがって授業も少ないらしい。

だからこそ、そんな感想になるのだろう。

授業なんてたまにあるくらいの方が、かえってありがたみがあるんじゃないだろうか。




「そあちゃん、地学が好きなの?」

「ああうん。うちのお父さんとお兄ちゃん、宇宙関係のところに勤めてるから。」

「へぇ、すごい!宇宙関係って……もしかしてJAXSAジャクサとかだったりして。」

「えっと……うん。」

「わぁ、それってすごいことですよね!?日本の宇宙開発の最先端じゃないですか!」

「そういうことに……なるのかな?」


あまり言うと身内自慢になってしまうし、鼻にかけているように思われるかもしれないから進んで口には出さないけれど、お父さんとノボ兄はわたしにとっても誇らしい存在だ。

それを褒められるのは正直なところ嬉しいし、ここまでの反応を貰うとくすぐったいような不思議な感じがする。


「でも、そっか。そあちゃんの姿って星とか宇宙とかそういうモチーフが入ってるけど、まさにそういう家に住んでるんですね。そあちゃんの方こそ、それこそそのものズバリなキャラなんだ。」


めぐるちゃんが、先ほどのあたしの言葉を使う。

「そのものズバリ」のキャラ付け……結果的には、そうだ。


「別に、こういう家だからこういうキャラなわけじゃないんだけどね。」


決して、家族のことを考えてこの姿を選んだわけではないのだけれど。

それでも、いくつかライバーとしての姿のイメージラフを頂いた時、一番「しっくりきた」のがこの姿だったのは確かだ。

Vライバーになろうとしたも含めて、「星空」があたしを構成するものの中でも大きな位置を占めているのは間違いないのだろう。



こうやって喧々諤々けんけんがくがく、いろんなことを話して。

かれこれ2時間は話していただろうか。


「ふふ……。あーあ、少しすっきりしちゃった。なんだかブルーになっていた部分があったんですけど。」

「そっか。それならよかったかな。」

「引退なんてことも口走ってしまいましたけど、私を待ってくれてる人がいるのも分かっていますし。少し、自分のことばかり考えすぎていたのかも。」

「しょうがないよ、それは。わたしだってお姉ちゃんとコラボする前は自分のことばっかりで精一杯だったし。お姉ちゃんに言われたの。自信が無くても、好きになってくれた人のことまで否定しちゃダメだって。」


お姉ちゃんから言われた言葉。

あれから何度も反芻して、今も心の中にある。

それがめぐるちゃんの力になったのなら、お姉ちゃんの妹としてこんなに誇らしいことはない。


「ええ。……やっぱりそあちゃん、ひかり先輩と絡み始めてから変わったね。呼び方も完全に「お姉ちゃん」になっていますし。」

「あはは、そうだよね……。なんかもう、しっくり来すぎて。実はお姉ちゃんの姿を真似して、リアルでもうっすら前髪にメッシュを入れてみたりしてて。あんまり濃い色で染めたら学校で怒られちゃうから、パッと見て分かるか分からないかぐらいなんだけどね。」

「本当に仲が良いですよね。なんだか少し羨ましいな。」

「めぐるちゃんだってお姉ちゃんと関わりはあるでしょ?なんだったら今度一緒に話そうよ。」

「ええっ!?それは嬉しいけど、いいのかな……」

「大丈夫、大丈夫!お姉ちゃんもこないだのコラボの後で「来てくれてたね」って話してたもん。」

「覚えてくれたの、嬉しすぎますね……。これは、なんていうかもう、引退とか言ってる場合じゃないですね。」

「そうだよ!引退しちゃったらお話もできないもんね。」


そう、引退してしまったら、もう二度と話すこともできない。

わたしも、そしておそらくめぐるちゃんも。

わたしたちは同じくして、同じことを思っていた。


「そあちゃんと友達でいられなくなるのも嫌ですし。」

「えへへ、あたしもー!」






二人で話し込んで、昨日はとても楽しかった。

まだ心配な部分が無いわけではないけれど、とりあえず「引退」ということにはならなそうかな。

わたしはホッとひと息、安堵のため息をついたものだ。



そして。

今は病院を出て、帰りのバスを待っている。

お姉ちゃんとお揃いにした、密かに入れた髪のメッシュをいじりながら。



そんな時、


「あの……」


ふと、後ろから呼び止められた。


「はい?」

「今からお帰りですか?」

「あ、はいそうですけど……」


声をかけてきたのはわたしと同い年くらいの女の子。

ふんわりとした栗毛色の髪が、なんだかモデルさんのような印象を与える。

そういえば受付で待っている時から、妙に視線を感じていたような。

あれ、でもこの声、どこか聞き覚えが……




「あの……もしかして。そあ、ちゃん……ですか?―――」

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