藍――矢吹ななみ
六道は2杯目のビールに突入していた。顔はすこし紅潮している。
「今日も、ありがとう」
唐突に六道は言った。私は意味が分からず訊き返す。
「おばさんの書斎で、明里を待ってくれてたろ。10年間、ずっと」
「それはあんたも一緒でしょ。特別なことじゃない」
「俺は、ほら、お隣さんだから」
またそうやって誤魔化す。だからあんたはいつまでたってもヘタレなんだよ。
好き。
たった2文字が、何かの呪いみたいに、彼の口を固く縛っている。それほどまでに、誰かを好きになるということは重く苦しいことなのだろうか。
指輪を渡された二ノ宮を、ちらと見る。
慎重な面持ちで、じっと固まったまま黙っている。そして、
「もし今日――明里がやってきたなら、プロポーズを受けるよ。明里にも、祝ってほしいから」
と彼女が言ったのが聞こえた。
まったく、どいつもこいつもたった1人の女に依存的なんだよ。
分かっている。
私だって、その一員だ。そうでなければ、毎日あの子の家に足繫く通ったりしない。
――
2040年 秋
「ねぇ、キミ、かわいいね」
そう声をかけられた瞬間――その対象は私ではなく彼女なのだということが分かってしまうのは辛いことだ。美しさは女であれば誰もが欲しがる特権だが、それが自分でない限り、それは無自覚に他人を傷つける。
それを、三鷹雪乃は分かっているのだろうか。
「あ、あの、えっと……」
顔を上げると、あきらかに問題のありそうな――お前が言うなと言われそうではあるが――背の高い2人組がそこにはいた。私とは対照的に、三鷹は顔を伏せた。
「ねぇ、高校生?」
「あの、えっと……」
三鷹はそれほど評判ではなかった制服すら完璧に着こなしてしまっていた。しかし、タイミングが悪い男たちだ。修学旅行で連れ出されたりすることはないだろう。
「ねぇ、彼氏いるの? ちょっとお兄さんと話をしようよ」
男のうち1人が、三鷹の柔肌に触れた。まるで汚いものにでも触れたかのように、三鷹は反射的にそれを避けた。そしてその態度が、男を不機嫌にさせた。今度はもっと強い力でがっちりと、細い腕を掴んだ。
「ひ……」
助けて、という眼でこちらを見る。私は、それをなぜかとてもあざとく感じて――手を差し伸べるのを避けてしまった。顔を横に向けると、三鷹は絶望的な顔で落胆した。
助かりたいなら、その場で大声を出せばいい。男の太い腕に噛みついてやればいい。この女は、かわいいを武器に、自分の責任から逃れ続けたんだ。それがすこし、腹立たしかった。
「なあ、いいだろ?」
「や、やめて……」
三鷹の声は、蚊の鳴くように雑踏の中に吸収されて消えた。ここに西野がいたならば、助けてやっただろうと思う。四条がいたならば、教師を呼んだだろう。でも私は、2人ほど優しくはない。すこし、自分の性格の悪さを恨んだ。
「おい、あっち連れてこうぜ」
「車近くにあります」
車近くにあります、と、隣にいた男は言った。まずい。こいつらは本気だった。
私は半ば手遅れを痛感しながら、私を全く認識していないクズ野郎に向かって、言った。
「おい、私ら修学旅行で来てんだけど。教師呼ぼうか? それとも警察?」
「あ? なんだこのアマ」
「ぶっさ! お前なんかお呼びじゃねえんだよ」
「あ、あの……矢吹さん、ごめんなさい……」
三鷹がなにか言った瞬間、私の怒りは頂点に達し、
「喧嘩なら買うけど? やろうよ」
と、言った。
男の固い拳が、私の眼球を捉えて迫ってくる。でも、それを受けたのは私でも、もちろん三鷹でもなく――
「私の友達を、傷つけないでください」
西野明里だった。
四条の眼鏡が、パキ、というか細い音を立てて割れた。続けて、カラン、と乾いた音を立ててつるが小汚い男の足元へ落ちた。
夢の国へようこそ! 場違いなアナウンスが、理解できない私の周りを包んだ。
――
それからの西野明里のクラスでの扱いはひどいものだった。このことは4人だけの秘密にしよう、という私の提案に全員が乗ったはずなのに、修学旅行があけると西野が四条の眼鏡を壊したらしい、という噂でもちきりになっていた。四条も三鷹も、そういうことを言いふらすタイプじゃないと思うから、きっと他の悪意ある誰かに現場を目撃されていたのだろう。その噂話には、西野が私たちをかばったとか、そもそも不良が悪いとか、西野を擁護する意見はなにひとつ入っていなかった。女社会の怖さを思い知った。私がそういった
「あの、これ、ありがとうございました」
「なに、これ」
「ハンカチです。ディズニーランドで、か、買いました」
相変わらずか細い声で、三鷹は言った。修学旅行から数日後の、夕暮れの教室だった。何の因果か、そこには私と、三鷹と、西野しかいなかった。
「いや、そんなの見ればわかるから。どういうこと、って聞いてんの」
「あ、あの時……矢吹さんは、私をかばってくれたから」
私は、あのとき三鷹に意地悪をした。だから対応が遅れて、結果四条の眼鏡が壊れてしまったのだ。あんたをかばったとはいえない。
「いらねーよ」
「もらいなよ、ななみちゃん」
私ももらったからさ。西野はまるで自慢するかのように、私と同じ柄の藍色のハンカチを見せた。キャラクターが刺繍されていて、つがいのそれは真ん中にハートマークを浮かばせていた。
「私、だめなんです。私、うまく話せなくて――このままじゃいけないって思ってるけど、うまくいかなくて――あの、本当に、友達に助けてもらえて嬉しかったです」
「私は、別に――」
ともだち。それは私にとって、少し不思議な気分だった。ブスで素行も悪くて、口も悪い私にともだち? うまく言葉が出てこなかった。
「あったりまえだよねぇ! ねえ、10年後も、絶対こうして集まろうね! 虹を、揃えよう」
西野が突然そばに寄り、強引に肩を組んだ。三鷹は笑っていた。自分がどんな表情をしていたのかは、分からない。
「藍ってなに?」
「濃い青」
あの時、二ノ宮の質問に答えたのは私だったことだけ、そのことだけ、思い出した。
西野明里が消えたのは、その翌日だった。
私がこうして毎日あの子を待っているのは、罪滅ぼしかもしれない。よく、分からないけど。
2050年 冬
「やっほ」
声がして振り返ると、そこには三鷹と四条がいた。
「久しぶり。で、お姫様は?」
四条が楽しそうに言って、
「1人はそこで固まってる。もう1人は――未来の舞踏会が長引いてるみたい」
と、私が答えた。
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