水色――六道譲
天才って何だと思う?
俺は、目の前の女性にそう訊いた。女性ははぁ、と呆れたように小さく息を吐いて、あんたの質問の答えは、全部西野明里でしょ、と答えた。
「全部?」
「誰を待ってるんですか? 誰のことが好き? 誰のために生きてる? 天才って何だと思う? その答えが全部、」
西野明里。
矢吹ななみは、小さなコップに入ったブランデーを一飲みした。
優介が指輪を取り出す姿が見えた。俺たちのことは、まだ気づかれていないだろう。
――
西野明里という女の子について話すことは、俺の初恋について語ることでもあり、タイムマシンについて語ることでもあり、天才について語ることでもある。
明里は天才だった。小学生から高校生に至るまで、彼女はこの世の中の難しい事象のほとんどを(完全ではないにしろ)知っていた。中学生になると、テストの順位発表で1位の座を他の誰かに明け渡したことなど1度もなかった。明里は常にトップだった。それは並大抵の努力で成しえられることではなかった。明里はなんとなく1番だったわけではない。誰よりも先を進むために、とてつもない努力をし続けてきた。明里は結果として1位だったが、まるでそうなることを運命づけられているかのような宿命や重圧を背負っていた。それはひとえに、
母親である西野博士のエゴによるものだった。
2040年 冬
10年後に集まろうね!
幼き日の約束。それは本人の不在というかたちで――実現することはなかった。いや、正確に言えば、仮に本人が来ていたとしても、各々の用事で全員が揃うことはなかったのだけれど。
蜜柑から連絡を受け、急いで明里の家に向かい、挨拶なんかせずに書斎に上がり込んだ。そこには、タイムマシンとPCを繋ぎ蒼白な顔で何かを打ち込んでいた西野博士と、膝をついて泣きながらうわごとを繰り返す蜜柑の姿があった。
「私のせいだ、私のせいだ……」
明里が戻ってくることを、その時から確信していた。
あいつは自分で始めたゲームを、降りたりするような人間じゃない。
図太くて、無神経で、愛しい。
それが、俺の知る西野明里だから。
――
「地区予選、準決勝敗退か」
明里は練習が終わったあとの部室にひとりやってきた。男の汗の臭いが、女には分かるのだろう。すぐに、鼻を曲げた。
「臭いね、ここ」
「悪かったな。――悔しいさ」
「自分1人の責任じゃないんじゃない、4番センターさん?」
俺をなじるような視線。優介が、時折蜜柑のことを恐れている理由が分かったような気がした。
「なんだよ」
「ううん、私が訊かなかったのも悪いし」
もし明里が来ていたなら――勝てただろうか。
俺たちはいつも、すれ違ってばかりだ。
「ねぇジョー」
「なに」
「私、怖いんだ」
「なにが」
明里はしばらく、黙ったままだった。俺は静かに次の言葉を待った。1分――いや、5分以上沈黙は続いた。俺は明里が恐れるものを想像したが、うまく思い浮かばなかった。
「いつか、私は天才じゃなくなる」
その真剣な瞳に、俺は何も言えなくなってしまった。けれど、それをごまかして茶化す。
「自分のこと天才だと思ってんなら、とんだ自意識過剰だな」
もしかしたら、明里を傷つけたかもしれない。言ってしまった後で、後悔した。明里の意図が掴めない。こんなこと初めてじゃないのに、俺の首筋にいやな汗が流れた。
「私を自意識過剰にしているのは、私以外の他人だよ。それは教師だったり、ななみちゃんだったり、ジョーだったり」
ママだったりするんだよ。
俺もしばらく黙っていた。そして静かに、切り出した。
「焦りすぎだよ、息抜きでもしたらどうだ? ほら、矢吹なんかろくに授業も出てねーんだからさ。あそこまでなれとは言わないけど、気にしすぎだよ」
「いつか――私は私の価値を失う。このまま行くと私はママの期待通りにエリートの道に進むかもしれない。でもそこには常軌を逸した頭の持ち主が大量にいるんだよ。そしたら、私は価値を失うんだ」
「お前の良さは、頭の良さだけじゃねえだろ」
「私は、そういう生き方しか教わってない」
すこし、おばさんを恨んだ。けれど、よその家の事情に口を出すべきではないことは分かっていた。分かっていて、それで――俺は次の言葉を探した。
「頭が良くて褒められるのなんて、学生のうちだけだよ。ママの後ろをついていろんな知識を吸収したけれど、それがもっと長い未来で役に立つのかどうかは分からない。未来って、分からないものだから」
そんなの俺も同じだ? 明里は未来でも天才だよ? いろんな慰めが頭の中に浮かんでは消えた。当時の俺は、たったひとつの冴えたやりかたを知らなかったんだ。
「俺も――のし上がれるところまでのし上がってやろうと思ったけど、無理だったよ。結果は予選敗退だ。けど、人間には――1人1人、なんかすげえ大事なものがあって、それは何年経っても消えることはないんだと思う。――と、信じたい」
「ジョーにとって、一番大切なものってなに?」
明里が見つめる。明里は答えを待っていたのだ。あの時、そう答える以外の選択肢なんてなかったのだ。
「家族――とか?」
明里は、少し哀しげな眼をして、そして笑った。
「没個性にならないために、私はいつか未来へ跳んでみせる。それで、誰も知らない秘密を握って、みんなの前で発表してみせる。それでそれで、ママよりも早く、世界一早く過去に戻る方法を見つけて、天才量子学者って呼ばれるんだ! どうどう、すごいでしょ」
「ああ、すごい」
「10年後のクリスマス、楽しみにしててよね! それまでに、優介と蜜柑が結婚してるか、確認してくるから!」
「意外と全然違う人と一緒になってたりしてな」
「あはは、あり得る」
「ジョー、10年経っても私たち、こうして話してるよね?」
「当然だろ」
「水色のものを持ってきてね」
俺のヘルメットを触る明里の声は、どこか甘えるような響きがした。
今ならわかる。蜜柑が自分を責めるのは間違っている。なぜなら、
明里は自分の意志で、未来へ跳んだのだから。
2050年 冬
「交代で来たって無駄よ。あの娘は消えたの」
「1年が365日だとすると、3650回そのセリフを聞きました。うるう年があるから、正確にはもっと聞きました」
「だったら――」
「けど、俺たちは諦めません。なぜならあいつは自分の意志で未来へ行ったからです。今日、みんなの前で自慢するために。だから今日、あいつは必ず帰ってくる。そう決まっているんです」
未来は分からない、とお前は言った。でも今だけは、俺は未来を知っている。
帰ってくるんだろ、明里。
「何度でも言うけれど、それは間違いよ。あの時、タイムマシンが動いたのは完全な誤作動。動力の入力をしていないはずだったけれど、なぜか娘を運んでしまったの。すべで私の責任。ねぇ譲、あなたたちに枷をはめてしまったのは罪だと思ってる。けれど、もう、諦めてほしい」
俺は苦笑する。分かってないなぁ、おばさん。
それでそれで、ママよりも早く、世界一早く過去に戻る方法を見つけて、天才量子学者って呼ばれるんだ!
あいつは、
あんたよりも先に、タイムマシンを完成させてたんだよ。
――
「それで? こうやってこそこそ隠れながら、自分の愛する人がやってくるのを待ってるわけ?」
矢吹のコップのブランデーは、もう残り少ない。飲み切るまでに、明里は来るだろうか。
「
「ううん、悪くない」
小綺麗になった矢吹は、きっぱりと言い切って笑った。
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