橙――二ノ宮蜜柑
「ありがとう、とっても嬉しい」
「じゃあ」
「でも、」
私にそれを受け取る資格はない、と私は言った。優介はその言葉に驚き、捨てられた子犬のような哀しい眼をした。
「蜜柑、西野のことを気にしているのなら――」
「明里を時間の向こうに消し去ったのは私。ほんの冗談のつもりだったの。起動しないはずだった。けど、あれはなぜか動いて、それで、明里は――」
未来へ、消えた。
「お前のせいじゃない」
「ううん、あの時スイッチを押したのは私。ふざけて明里を中に入れたのも、私。明里のいない世界で、私だけが幸せになるなんて、そんなことできない」
「蜜柑、聞いてくれ」
優介が私の手を握った。
「あの日、お前と西野の間にどんなやりとりがあったのかは知らない。でもあのタイムマシンは未完成だった。西野自身がそう言っていたんだ。不調だったんだよ。あれは事故だったんだ」
私はコートのポケットに忍ばせたみかんのお守りをぎゅっと握りしめた。
修学旅行のあと、明里が私にくれたお守り。
10年後、虹を揃えよう、と口にしたんだったよね。
みかんちゃんはみかんだから橙ね、これまた持ってきて、と明里は笑っていた。
2040年 秋
「ほい」
西野博士――明里のお母さんの部屋は、大型図書館みたいに、数えきれないほどの蔵書が四方に並べられている部屋だった。そこで無造作に、明里はそれを渡してくれた。
「なにこれ」
「修学旅行のお土産。肝心な時に風邪をひいた情けないお姫様のために、唯一無二の親友がお情けで買ってあげたのよ。感謝したまえ」
「お姫さまって何? しかもこれ、ディズニーランド関係ないじゃん」
オレンジ色の表面に、ありがちなみかんのマスコットキャラクターがあしらわれているお守りだった。
「ゆうすけが泣いて悲しがってたよ。大好きな彼女が修学旅行に来てないって。それ、中で買ったんじゃなくて、途中で買ったんだよ。みかんちゃんはみかんだからね」
「へぇ。そんなこと言ってたんだ。恥ずかしい奴」
「いいじゃん、愛されてて。10年後、これ持ってきてね」
10年後? 訊き返す私に、明里は真面目な顔をして言った。
「10年前、10年後に集まろうって言ったの憶えてる?」
「10年前――って、7歳の時? 憶えてないよ、そんなの。ていうか、10年前の10年後って今じゃん」
「あーっ、やっぱりみかんちゃんも忘れてる! ひっどーい! 楽しみにしてたのにぃ!」
明里は不貞腐れた。けれど、仕方のないことだと思う。7歳なんて、その時の記憶すらあいまいな年ごろなのに、10年間も約束を憶えているなんて難しい話だ。
「虹の話をしたのに! それぞれ色を集めて持ってきてねって言ったのに! こないだゆうすけに連絡したら、憶えてる訳ねーだろ、って言われて!」
「そりゃそうでしょ。優介は正しい」
「みどりちゃんとゆきのっちと、ななみちゃんにも言ったんだけど、予定があるってさ。ちぇー、特にゆきのっちはさ、アイドル活動が――」
「ちょ、ちょっとまって明里! ななみに声をかけたの?」
「声をかけたっていうか、修学旅行で――あ、いいや、なんでもない」
驚いた。クラスで明里をあれだけ邪険にしているななみに、昔と同じテンションで――性懲りもなく声をかけたのだろうか。明里はやはり、無神経だ。他人の気持ちを理解しようとしない。
「ねぇ明里、私たち、もう子どもじゃないんだからさ――相性の悪い人とは、もう関わらないほうが――」
「ななみちゃんと相性が悪いのはみかんちゃんでしょ? 大丈夫、修学旅行で仲良くなったから」
また適当なこと言ってる……。話題を変えたかった私は、本の山に囲まれたまま沈黙しているタイムマシンに目を向けた。人1人が入れそうな透明なカプセルになっている。まだ試作段階とは聞いているけど、すでにメディアへの発表は済ませているようで、少し前まで報道陣が詰めかけていた。
「ねぇ、あのタイムマシン、動くかな」
「え~、何度も言ってるじゃん。まだ未完成だって。動かないよ」
「ねぇ、入ってみてよ」
「むふふ、気になる?」
「うん」
そう、私が明里をけしかけたのだ。
明里は制服姿のまま、カプセルへ向かった。そして明里が入ると、タイムマシンのドアは自動で閉まった。
「だして~だして~」
「あはは! でもすごいね、明里! これでほんとに未来に行けちゃうんだ」
「光よりも速いスピードで行けば未来につくんだって。この箱の中の加速度を急激にアップさせて、未来に飛ばすらしい」
「宇宙飛行士みたいな装備がいるんじゃないの?」
「なんかママがその辺はうまくやったんだって。よく知らないけど」
「やっぱり天才だね、明里のお母さん」
「まぁね」
カプセルの右側に、いくつかボタンがついていた。動かすのはそれ、と明里が中から指をさした。
「これ、押したら未来に行っちゃうの?」
「だから、動かないってば」
「じゃあ、押しても大丈夫?」
「何も起きないよ。押してみ」
私があの時、あの時――ボタンを押さなければ。
「待って。ねぇ、過去に戻るにはどうするの?」
「過去に戻るためには歪みが必要なの。今お母さんがブラックホールの仕組みを研究してる」
「へぇ。じゃあ簡単には戻って来れないんだ」
「動かないから平気平気。押しなよ」
「あはは、じゃあ遠慮なく」
遠慮なく、馬鹿な私は、
ボタンを押したんだ。
ズウウン、という重い音が部屋に響いた。カプセルが白く光りだし、明里が驚いた顔をした。間違いなく、タイムマシンは動いていた。
「あ、明里!? や、やばいよこれ! 出なきゃ! あ、開けるボタンどれ、ねぇ、明里!?」
私は完全にパニックになっていた。明里はなぜか諦めたような顔をして、言った。
「一度動いたら、途中で止められないんだ。ごめんね、みかんちゃん」
「はぁ!? あ、明里、何言って――」
「10年後、また虹を揃えよう。みかんちゃんはみかんだから橙ね。それまた持ってきて」
「明里、明里っ!!」
「みんなにも言ってあるんだ。10年後こそ、絶対に集まろう」
私は一度押したボタンを繰り返し連打した。透明なドアを何度も叩いた。けれど、何の変化も起きなかった。
「帰って、これるの……?」
「未来の技術に期待だね。ねぇ、みかんちゃん」
私たち、ずっと友達だからね、ずっと。
そして、明里は消えた。
夕方になっても、夜になっても、明里は帰ってこなかった。私は帰宅した西野博士に泣きつき、西野博士も尽力したが、明里は帰ってこなかった。
私は毎日明里の家に行った。けれど、1年経っても、5年経っても、10年経っても――明里は、帰ってこない。
私の、せいで。
2050年 冬
「だから、私はその指輪を受け取る資格なんてないの」
「蜜柑、もう10年経った。10年だ。お前は解放されるべきだよ。譲もだ」
譲。明里の初恋の人。譲は今でも、西野博士のもとで躍起になって明里を捜している。
「でも」
「赤い色を持って来いって、あいつに言われたよ。だから今日、この指輪を用意したんだ。もしあの言い出しっぺが約束通り姿を現したら、俺からもらったって言ってそれを見せつけてやってほしいんだ」
「優介――」
「もし来なかったら、俺たちは――俺たちは、未来に進むべきだよ」
優介が私を抱き寄せた。コートの中のお守りを、強く握りしめる。
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