第2話
何時間そうしていたのか、気づくと外は暗くなっていました。そこで初めて、今日は旧友と食事の約束をしていたことを思いだしました。そしてもし熱をだしていなかったら、目の前のこのかたと出会うことはなかったのかもしれないと思いました。そうすると、背中にぶるっと寒気が走りました。そんなおそろしいこと、あってはならないのです。けれど実はほんの少しのことで、私たちの人生はとんでもないくらい大きく変わってしまうのです。そのことに気づくと、私は泣いてしまいました。涙がラップにぽたりと落ちて、あわてて私はこのかたを大切に保管しなければならないと思いました。あらゆる棚をひっくり返して、このかたにふさわしい入れ物を探しました。しかしどうしてもぴったりの入れ物が見つからないので、私は財布を持って買い物にでかけることにしました。靴を履きかけてから思い直してキッチンに戻り、もう一度あのかたを愛でました。本当は少しの間も離れたくありませんでしたが、今はしかたありません。名残惜しく思いながら、いっときの別れをつげ、私は買い物にでかけました。
いくつかの店をまわり、ようやく私は理想の入れ物を見つけました。いくつか微妙に大きさの違う入れ物を買いながら、果たして、あのかたはこれのうちどれを気に入ってくれるだろうかと考え、ドキドキしていました。自宅に帰ると、あのかたはでかける前と姿を変えずに私を待っていてくれました。私はあのかたに入れ物を選んでもらい、ぴったりのものを合格とし、あとのものは捨てました。このかたにふさわしくないものは何もいりません。
それからその晩は、あのかたと一緒にベッドをともにしました。枕元にいるあのかたはとても幸せそうな寝息をたてていました。私の用意した入れ物と、ベッドをお気に召してくれたようで、私はたいそう安心しました。このかたに嫌われてしまったら、私はもう生きていくことができないかもしれない。そう思いながらその晩は眠りにつきました。
翌朝、私は目を覚まして枕もとにいるあのかたを見ました。そうしてまた、再度あのかたの美しさを堪能しました。気づくともう会社に行かなければならない時間です。私は残念に思いながら、あのかたを鞄にいれ、家をでることにしました。電車のなかでも、何度も鞄のなかのあのかたを見ては微笑みました。あのかたと一緒にいることができる。たったそれだけのことで、こんなにも強くなれるなんて、私は世界で一番幸せに違いない。そう確信していました。
お昼休みに休憩スペースでご飯を食べていると、同僚が同じテーブルに座りました。いつもは一人でご飯を食べている私ですが、たまにこうして同僚や先輩がやってきてご飯をともにすることがあります。
「何それ?」
同僚は机の上のあのかたを指差して聞きました。私はサンドウィッチを頬張りながら、なんと言っていいのか逡巡しました。私は三十年近く人間社会を生きてきたおかげで、私とあのかたの関係性は、彼らの常識からは外れている。という認識がありました。だから、私はあのかたのことを、彼らから見えている形状でそのまま説明することにしました。
「サンドウィッチ食べてるのに、おにぎりも食べるの?」
同僚はおかしそうに言いました。食べるなんてとんでもない、私は怒りを感じましたが、お腹にぐっと力を入れて耐えることにしました。私と彼らには決定的な違いがあるのだから仕方がない、そう自らに言い聞かせることで気分を落ち着けました。
同僚と私は他愛のない話しで場をつないでいましたが、同僚と同じ部署の友人が来ると二人で楽しげに話しをし始めました。私は安心してそっと席を立ち、その場をあとにしました。
仮眠室にいき、入れ物からあのかたを出しました。あのかたは「ちょっと窮屈だった」と言って大きく深呼吸をしました。私はそんなあのかたを見ながら、そっと簡易ベッドに横たわりました。あのかたを見ながらまどろむなんて、こんな贅沢なことあるでしょうか。昨日から、私はずっと贅沢な生活をしているのです。
こんなに幸せでいいのかしら? 思わず口にだして呟き、表面のラップをそっと剥がしてあのかたに触れました。一日たっているにも関わらず、あのかたはいまだに適度な湿度を身体にまとっていました。指先にひんやりとした温度と、少しぺたぺたする感触が伝わってきます。あのかたはひどく猥褻(わいせつ)な粘度を持っていて、私は唾をごくりと飲み込みました。ぺたぺたと夢中にその粘度を指先で味わいました。そのとき隣の仮眠室から咳払いが聞こえてきて、私は我に返りました。指先には、あのかたからとれた米粒が一粒ついていて慌ててあのかたに押し込みました。あのかたはちょっと苦しそうな声をだしましたが、なんとか元に戻すことに成功しました。私はいったい何を考えているのだろう。あのかたに対してやましい気持ちを抱いて、あまつさえ、あのかたを傷つけるようなマネをするなんて。私はたいそう反省をしました。
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