花びら

@YuiiHiiragi

第1話

私は恋をしてしまいました。色白なからだに印象的な黒色の帯を身にまとったあのかたに。私の目の前で、キラキラと光っているあのかたに。私はとつぜん電源を抜かれたロボットみたいにぼんやりとあのかたを見ていました。そのキラキラを前に、私はどうすればいいのか分からなくなってしまったのです。

今思えば、そのときはじめて何かの対象物に対して心を奪われるという体験をしていました。しかしそのときは、自分が人生でほとんど体験することがない、いえいったい何人の人が経験できるかもわからない奇跡的な体験をしているとは、つゆほどにも思いませんでした。


忘れもしません。あの日は、冬が春を目前に、最後の力で寒さをまきちらしたみたいな季節外れの寒い日でした。私は朝から熱があるのか、ひどくぼんやりしていました。今考えると風邪をひいていたのかもしれません。しかたなく、その日約束していた中学時代の同級生との久方ぶりの食事をキャンセルしました。友人に連絡をし、ぼんやりとスマートフォンを見ていました。頭が動かないときにこれほど便利な機械はないだろう、小さな画面に押し込められたさまざまな人々の日常を指でスクロールしながら私は思うのでした。

しばらくしてお腹から気の抜けた音が聞こえました。ぐあいが悪いときこそ、ご飯をたくさん食べなければ。そう思い、私は米を炊きました。しかし冷蔵庫におかずにするべき食べ物がないことに気づきました。すでに炊飯器からは米が炊けたことを知らせるのんきな電子音が響いています。ゆいいつ見つかったのは冷蔵庫の奥底から発掘された、しけった海苔が一枚。これをおかずに白米を食べるしかないのか、なかばあきらめていたとき、玄関のチャイムがなりました。

思わず私は動きを止めます。誰だろう。私の家に尋ねてくる人で心当たりがある人と言えば、インターネットで購入した商品を届けてくれる宅配便のお兄さんくらいしか心当たりがありません。しかし最近は何か買った記憶もなく、その可能性はあまり考えられませんでした。それゆえ、私のなかに緊張が走りました。この場合、考えられるのは、宗教勧誘か、国営放送の受信料の催促か(私の家にはテレビがないので必要ないのですが)、あるいは――

「ゆみちゃん、私。ママよ」

その声に、ひどく力が抜けました。どうやら私に熱があることを知り、急遽やってきたようです。母は、私が一人娘ということもあるのか、私がもう三十歳を手前にしているにも関わらず、いまだに子離れができない人なのです。それに嫌気がさして実家をでたというのに、毎日の生存連絡はもちろん、今こうして私の家に来たように理由をつけては、しょっちゅう私の部屋におとずれるのでした。今日だって熱が出たことは友人にしか言っていないにも関わらず、この迅速な対応っぷりです。私は聞こえないように小さくため息をついて、ドアを開けました。

「ゆみちゃん、大丈夫? 熱は何度あるの? 体温計買ってないの? だめじゃない、いざってとき困るでしょう。病院は行ったの? 近くの病院は? それも調べておかないと。体調悪いときに困るじゃない」

ドアを開けた途端に弾丸のように浴びせられる母の言葉に、毎度のことながら耳を塞ぎたくなりました。私は、きっと心配性が擬人化したら母のようになるのだろうと思いながら、母の顔をまじまじと見ました。母はそんな私の思いに気づくはずもなく、私のおでこに手をあてました。

「すごい熱じゃない。寝ときなさいよ。ご飯食べた?」

私が首をふると、ぶつぶつと何かを言いながらキッチンに向かいました。私はこれから食べようと思ってご飯を炊いたけど、おかずにするものが海苔しかなかった旨を伝えました。母は大きくため息をついて、非常食をよぶんに買っておく必要性をまくしたてました。私はてきとうに返事をしながら、ベッドにもぐりこみました。母の声は私には大きすぎて頭が痛くなってしまうのです。ベッドに横になると、眠気が私に寄り添います。私は安心して身を預けました。

目を覚ますと、窓の外からオレンジ色の光りがさしこんでいました。ずいぶんと寝てしまったようです。やけに静かだなと思ってから、母がいないことに気づきました。もしかしたら、母が来たのは夢だったのかもしれない。そう思いながらキッチンに向かいました。

キッチンのテーブルに皿が一枚、ぽつんと置かれていました。近よってみると拳ほどの大きさのかたまりが見えました。何だろうかと思い近づくとその姿の全貌が見えてきました。それが、あのかたでした。

 炊きたての白米をぎゅっとつめこんだそのからだに、しけった海苔をまとったあのかたは、きらきらと光っていました。きれいな三角形のフォルムに絶妙な厚みをたもち、色白のからだに黒色の帯をまとった姿は完璧としかいいようがありませんでした。

テーブルには「おにぎり食べてちゃんと寝なさい」と母の字で書かれた手紙がのっていました。どうやら母がつくってくれたようです。手紙には、冷蔵庫に他の料理をつくって入れた旨が書かれていましたが、私は皿の上に乗っているあのかたに目を奪われていました。

「なんて美しいんだろう」

私は一人、つぶやきました。そしてあのかたを、そっと持ち上げました。その美しさが生み出されてからしばらく時間が経っているのか、ひんやりとした冷たさが指先に伝わってきました。その温度すら、私には完璧に思え、ますます愛おしいと思ってしまいました。

それから、私はあのかたを包みこむラップを少し剥がしてみました。くしゃくしゃに包まれたラップの隙間から、あのかたのからだがあらわになります。ラップとともにあのかたがまとった黒い海苔も一緒に剥がれそうになり、あわててラップを元に戻しました。しかし正直にいうと、あのかたの裸の姿を見るのがとても恥ずかしかったからというのも大いにあります。透明なラップからあのかたの全身が見えているですが、それでもラップも通さないあのかたのあらわな姿を想像して、私は顔の温度が急激にあがるのを感じました。今、きっと私の顔はリンゴのように真っ赤になっているに違いありません。今朝方の熱とはまったく違う温度の熱さに私はとまどい、両手で頬を包みました。冷たいてのひらが顔の温度を少しさげてくれました。私は目を閉じて、大きく息をすって吐いてを何度かくりかえしました。目の前のあのかたは皿の上に不服そうにたたずんでこちらを見ています。私は「失礼します」と言って、あの方を持ち上げ、あのかたをさまざまな角度からながめました。どの角度から見ても、そのフォルムは美しさの均衡を保っていました。それからおそるおそる右手で触ってみました。しばらく私は近くから見たり、色々なところを触ったり(決してやましい気持ちはありません)、そうすることであのかたの美しさにおぼれることにしました。

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