2 魚と魚
翌日、木曜日。ひいろは教室に入るなり寒気がした。他の生徒が寒そうにしていないところを見ると、室温が低いわけではないのだろう。カゼを引き始めている気はしないが。
生徒たちはざわついていた。「今日も祭部先生来ないのかな」「教頭先生嫌すぎ!」などという声があちこちから聞こえた。
席に着いたひいろは、妙なことがあると気づいた。ないからおかしい、の方が正しいか。
(いつも早い泉名さんが来てない? もし遅刻で、今日も教頭先生なら、うるさくいわれそうだ)
ひいろも昨日のうちに三回怒られたので、気を付けた方がいい。
チャイムが鳴る直前に、バネバネバが教室へ入ってきた。ふらふらした足取りでひいろの横を通り抜ける。
「おはようございます、有末さん……」
「おはよう……どうしたの?」
ここのところ大人しくはあったが、今日はおかしすぎる。悪夢にうなされた後のような顔だ。バネバネバは立ち止まり、少しだけひいろに振り返る。
「その、実は今朝から……何でもありません……」
明らかに何かある様子で黙って、ひいろの斜め後ろへ座る。
「着席!」
今日も教頭先生が来た。相変わらずムッとした顔。どこかからため息が聞こえた。
「あの、祭部先生は?」
学級委員が聞いたが、教頭先生の反応は昨日と同じだった。
「気にする必要はない」
(そんなふうにいわれたら、余計気になるよ!)
情報がなければ不安になるとわかっていないのか、元々わかろうとしていないのか。
「出席を取る」
また教頭先生が一人ずつ名前を呼び始めた。なお、真理子は来ていない。
(ああもう、早く〈まじしゃんずきゃっと〉に行きたい)
ひいろは返事をしてすぐに店のことを考えた。昨日と同じように。
(魔法を使えば、祭部先生がどこでどうしてるかわからないかな。わかったとしても、みんなに話したりできないか。どうやって知ったのかいえないし)
「ひいいい!」
いきなり悲鳴が響いて、ひいろは振り返った。
叫んだのはバネバネバだった。顔を恐怖に引きつらせ、教室の後ろを指さしている。
「ど、どうしてあんなのが!」
絶叫しつつイスから落ちた。腰を抜かしているのか、立ち上がることもできない。
声を上げる生徒は他にも何人かいた。
「何だよあれ!」
「怖え!」
叫ばない生徒も、突然のことにおろおろする。
教頭先生は「どうしたんだね」と声をかけたが、誰にも届かない。特に動揺しているのは最初に悲鳴を上げたバネバネバで、普段とあまりに違う。ひいろはとっさに駆け寄った。
「何かあったの?」
「有末さん、わたくしの心配を、してくれるんですか?」
「そういうわけじゃ……ほら、おかしいし!」
放っておくのは落ち着かない。バネバネバがおびえながらすがりついてきて、ひいろは背中をさすってやった。客でもあるピピ君の飼い主だからだと自分に言い聞かせる。バネバネバはひいろを見上げながら少しだけ安心顔をした。
「きっと、こんなに優しい有末さんを困らせていたから、罰が当たったんです。あんなものが見えるなんて」
(何か見えてる? 昨日の泉名さんもそんな感じだった)
ひいろは叫んでいる生徒を見渡して、気づいた。バネバネバ以外も教室の後ろに顔を向けている。
そこには水槽があって、中に住んでいるのは金魚。女子からはキンちゃんという普通の名前で、男子からはゴールドフィッシャーという間違った英語の名前で呼ばれている。
(あたしには、いつもどおりに変な形の水草が見える)
キンちゃんの求めているものに関係があると、今のひいろは知っている。
(水草が見えたからってこんなふうになる? あたしは物心ついたときから見てるせいで感覚が変なのかな。普通の人は見え始めたらこうなるのかな)
「お、大きな魚が来る!」
他の生徒が叫んで、ひいろは疑問をふくらませた。
(大きな魚なんて、むしろ嫌なものじゃん。キンちゃん食べられちゃう)
考えている間も生徒たちはそれぞれに声を発する。それでも教頭先生がいうことは変わらなかった。
「静粛に!」
放課後、ひいろはランドセルを自分の部屋に放り込んでから〈まじしゃんずきゃっと〉に飛んでいった。ちょうど客が途切れていて、事件についてハツユキたちへ細かく話した。
「ヤミケモノの仕業だな」
ハツユキが断言して、ひいろは魔法の素採りのときに見た怪物を思い出した。
「あれってケモノ界にいるんじゃないの?」
「強いヤミケモノには、人間界へ影響できるやつがいる。教室に生まれたやつは、お前と逆の力を人間に植えつけたんだ。求めるものじゃなく求めていないものが見える、とか」
「だから大きな魚が……」
教室で想像したとおり、大きな魚は金魚からすると恐怖の対象でしかない。
「どうしてそんなのが急に」
ひいろはハッとした。
「グラウンドのヤミケモノは、ジャマネージャー……何とかって六年のイライラから生まれた。今回のは、あたしたち生徒のせい? 担任の祭部先生に会えない寂しさと教頭先生へのいらつきから生まれた?」
「その可能性は高い。おそらく戸惑いやすい人間ほど強く早く影響される」
ハツユキが付け加えて、ひいろはハトを見て怖がった真理子が大人しいと思い出した。
「もしかして、あたしもそうなるの?」
「お前はアーデルハイトの子孫として魔力を持っているから、抵抗できるはず。しかし他の人間は違う。お前の教室は『勉強しているだけで変なものが見え始める怪奇スポット』と呼ばれるようになるだろうな」
ひいろは学校に特別な思い入れを持っていないが、気分のいい話ではない。
「変なものが見えないようにする方法はないの?」
「ヤミケモノを倒すしかない。ケモノビト警察に通報しておくか。人間界に影響するやつはケモノ界のことがばれるきっかけになるから、駆除の対象だ」
ハツユキが念話玉を操作し始めたとき、ドアがチリンチリンと鳴ってまた客が来た。
ひいろはすぐにエプロンとインカムを用意して、働き始めた。
今日は特にしっかり働きたい。人間界にいても落ち着かない気がする。しかし料理やあいたコップを運んだりしていても、もやもやしっぱなしだった。
何匹目かの客が現れて、ひいろは驚き顔をしてしまいかけた。
魚の客だった。ここへ来るのは犬や猫などほ乳類がほとんどで、魚は一番少ない。だからひいろはぎょろりとした目になかなか慣れない。
今日来たのは金魚。コップをテーブルからお盆へ移しているひいろに近づいてきた。
「有末さん、ここで働いている噂はハトたちから聞いていました」
「どうしてあたしの名前を?」
ひいろは金魚の知り合いがいただろうかと考えて、自分が名字で呼ばれたことに関係していると気づいた。それで呼ばれる場所といえば、教室。
「もしかしてキンちゃん? あ、お客さんに『ちゃん』はまずいかな」
「五年二組で親しまれている名前がいいです。ゴールドフィッシャーでもいいですが、長いですので」
キンちゃんはレジに近寄って、ムギに一言。
「お任せでお願いします」
ひいろは首筋に冷水を垂らされた気分だったが、いつものように動いた。厨房でコップに氷を入れ、冷蔵庫から出したジャスミンティーを注ぐ。魚は熱に弱く、飲み物は冷えたものを好むからだ。ストローも忘れてはいけない。
厨房を出ると、もうキンちゃんはカウンター席に座っていた。ひいろはキンちゃんのそばにジャスミンティーを置いた。
「相談したいことは……教室に出たヤミケモノのこと?」
キンちゃんはうなずいた。動物は人間界にいてもケモノ界が見える。
「ご存じでしたか」
「あたしは、そういうのがいる話をここの店長に聞いたところだよ。どういうヤミケモノなの?」
「外見を言葉にするのは難しいです。水中の生き物にはない姿ですので」
つらそうな顔をする。魚類は他の動物より表情の変化が少ないが。
「いえるのは、あいつがクラスの子らに悪影響を与えてほくそ笑んでいること。私にはそれが我慢なりません。しかし、あのようなものには太刀打ちできない……!」
胸びれを丸めてふるえさせる。人間ならこぶしを握って悔しさに耐えているところか。
「この手で倒せないのなら、せめてクラスの子らを元気づけてあげたいのです」
(キンちゃんが水槽から心配してくれてるなんて、クラスの誰も想像してないだろうな)
ひいろはありがたく思いながらキンちゃんの上を見た。今までキンちゃんに見ていたイメージとは別のものがある。
小さな木で、細長いものが次々に生える。バナナのようだが、スーパーで売っているものとは形が全然違った。
(あんなことが起きたから、求めるものが変わったんだ)
ひいろはキンちゃんに「ちょっと待ってて」と告げて、厨房に入った。ハツユキがクレープを一つ作り終えてスミに手渡したところだった。
「あの金魚はあたしのクラスに住んでる子で、生徒を元気づけたいっていってくれてる」
「優しい魚だな」
「うん。それで、上にあるのはラッパみたいなバナナ」
「それが何かは調べるまでもない。ハーメルンフエノキの実だ」
ハツユキはすぐに答えた。
「アーデルハイト伝説の中でも最大のものの一つ。古い屋敷に住む年寄り猫が最期に町の人たちと話すことを求め、アーデルハイトは年寄り猫の下に人間たちを集めた」
(どうやって動物と人間をしゃべらせたの? ピピ君のときみたいな感じ? でも大勢の前で人間になったら、ケモノ界のことがばれちゃわないかな)
ハツユキは念話玉でひいろの教室を見渡す。ひいろは後ろから映像をのぞいた。
バナナのようなものは壁から生えた木に実っているが、現れたという怪物の姿はどこにもない。首をかしげていると、ハツユキが苦しそうな顔をひいろに向けた。
「ハーメルンフエノキはある。ただし、かなり大変な魔法だ」
どういう魔法なのかハツユキが説明してくれて、ひいろは難しさを理解した。
「そんなこと、できるのかな……」
「強いヤミケモノもいるそうだし、今回は手を出さない方がいいもしれない。どのみち、お前が何かする必要はないだろう。ケモノビト警察が解決させてくれたらな」
「あ、それなら大丈夫なんだ」
ひいろはすぐにカウンターへ戻った。
「心配だけど、もうケモノビト警察に連絡がいってる。きっとやっつけてくれるよ」
そう話したひいろだったが、胸騒ぎが残った。理由はわからない。
「なるほど……」
キンちゃんは悲しげにつぶやいてからジャスミンティーを飲み終えて、イスを降りた。
「どちらにしても、また来ます。教室でじっとしているのは落ち着きませんので」
少しも元気にならないまま、去っていく。
(自分で何もしないことが、気になるのかな)
ひいろは後ろ姿を見送りながら、自分の中にもざらつくものを感じていた。
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