第三話
1 寒気がする教室
水曜日の朝。五年二組の教室で生徒たちがあいさつを交わしているなか、ひいろは黙ったまま席についていた。しかし気分は軽い。窓から入ってくる春風も気持ちいい。
(早く放課後にならないかな。悩んでる動物がまた来るだろうし。こないだはちょっとやりすぎちゃったけど)
土曜日のひいろは、一日の間に魔法を何度も使ったせいで人間界に戻ってから立ちくらみしっぱなしだった。だから翌日の日曜日は〈まじしゃんずきゃっと〉の仕事を休んで大人しく過ごした。
月曜日からは体調がよかったので、放課後に〈まじしゃんずきゃっと〉へ行くことができた。動物から相談を聞き、ヤミケモノの縄張りへ踏み込んで魔法の素を採り、動物の悩みを解決させることもできた。今日もそうやって働くつもりだ。
壁の時計を見て、不思議に感じた。普段ならもう朝の会が始まっている。他の生徒も「先生遅いな」「今のうちに宿題写させろ!」などといっていた。
「着席!」
ドアが勢いよく開けられた。うろついていた生徒は慌てて自分の席に戻る。
入ってきたのは担任の祭部先生ではなく、教頭先生だった。ひいろのお父さんより十歳くらい年上で瞳は厳しく、ぴっしりとスーツを着ている。祭部先生がおっとり系でいつもジャージ姿なので、かなり雰囲気が違う。教卓の向こうに立って、メガネ越しにひいろたちを見渡す。
「祭部先生はどうしたんですか?」
学級委員が聞くと、教頭先生は眉根を寄せた。
「祭部先生は出勤の途中で交通事故にあって、入院することになった。しばらく私が君たちの担任をする」
ざわっと、教室に声があふれた。みんな不安そうな言葉を交わし始める。ひいろは誰かと話したりしなかったが、心配になったのは同じ。
「教頭先生、入院ってどこの病院なんです?」
「ケガはそんなにひどいの?」
「みんなでお見舞いに行くよ!」
何人もの生徒に話しかけられた教頭先生は――
「静粛に!」
――手を強く叩き合わせて黙らせた。
「君たちが案じても何一つ解決しない。お見舞いに行っても病院に迷惑をかける」
ひいろは教頭先生のいったことが正しいと思ったが、同時に正しくないとも思った。他の生徒も納得できない顔をしたり、余計心配そうにしたり。
「見せられないくらいひどいケガってことかよ?」
「嫌よ、そんなの……」
教頭先生は構わずに出席簿を開けた。祭部先生なら教室を見渡せば誰がいて誰がいないかわかるが、教頭先生は違うので一人ずつ名前を呼ぶつもりだ。始める前に、窓を指さす。
「窓を閉めなさい。私は花粉症持ちなんだ」
窓際の生徒がのろのろと窓を閉めた。ひいろは風が来なくなったので面白くなかった。
教頭先生はいうことを聞かせた割りに不機嫌そうなままで、生徒の名前を呼び始めた。返事が小さいとやり直しをさせた。ひいろも「はーい」といってしまって怒られた。
いつもなら朝の会が終わってから授業が始まるまでに少しの間があく。しかし教頭先生はすぐに教科書を準備し始めた。
「遅れて来たせいで、もう授業開始時間を過ぎている。始めるぞ」
学級委員に「国語はどこまで進んでいる?」と聞き、ページをめくる。そのころには生徒全員が「文句を言っても余計に腹を立たされる」と理解していて、ひいろは教室に不満げな空気がたまっているのを感じた。
――ふ――
(何?)
ひいろは奇妙な感じがして辺りを見渡した。首筋に冷たい風を浴びたときと似ている。しかし窓が閉められたので風はない。すき間から入ってきても、春の今はそう冷たくないはず。
「そこの君、何をよそ見している」
ひいろは自分が怒られたと気づいて背筋を伸ばした。
「すみません」
「では、君が三十六ページの最初から読んでみなさい。さあ、立って」
ひいろはげんなりしつつ立ち、指示されたところから読み始めた。途中で「もっと大きな声で」といわれて気分が悪く、読み終えたときには変な感覚のことを一旦忘れていた。
(ああもう、早く〈まじしゃんずきゃっと〉に行きたい)
座り直し、逃げ道を求めるように窓を見る。ベランダにハトが何羽かいた。昼休みにパンくずをあげる生徒がいるので、いついている。
(モモちゃんもムラサキちゃんも残念でした。窓を開けさせてもらえないみたいだから、パンくずもないかもよ?)
モモだのムラサキだのというのは、魔法の素のイメージに付いている色のこと。ひいろならではのあだ名だ。
(あたしの方こそクレープの魔法で悩みを解決させてほしいよ)
「あ……ああっ!」
窓際で急に声が上がって、教室にいるもの全員の視線を集めた。
叫んだ生徒は泉名真理子という名前。真面目で遅刻一つしないが気は小さく、窓の外を見ながら青ざめていた。
突然だったのでクラス全体がざわついた。男子数人は心配げな顔をしている。真理子は優しくてかわいいので男子にファンがいると、ひいろは小耳に挟んだことを思い出した。
ハトたちは教室内の雰囲気が変わったと感じたのか、飛んでいってしまった。真理子はしばらく窓の外をちらちら見ていて、おびえているのがひいろにもわかった。
(変なものでも見たみたいだった。ハトがいるだけなのに……まさかハトの上に魔法の素のイメージが見えた? そんなわけないか。変な花や葉っぱくらいであんなに怖がるはずがないし)
その日の授業はつまらないばかりで、生徒全員が普段とのギャップを身に染みさせた。給食の時間でさえ教頭先生が「黙って食べなさい」といってきて、息が詰まった。
「……って感じで、今日は大変だったんだよ」
「ふうん。人間にも嫌なやつっているんだね」
〈まじしゃんずきゃっと〉に出たひいろは、客が途切れるとムギを相手に愚痴った。いら立ちが通じているかどうかは疑問だが、
「ひいろ、そんなに怒って大丈夫? 怒った人間は『はらわたが煮えくり返る』っていうけど、はらわたって胃とか腸のことだよね。おなか熱くない?」
「さあ……冷たい風みたいなのだったら教室で感じたような……」
首をかしげたとき、新しい客が入ってきた。暗い表情のハムスターがレジの前に立ち、ムギがレジの内側に入った。
「お待たせしました! 何にしましょう!」
「お任せ……」
ハムスターがKBをポシェットから出し、ムギは受け取ってからインカムのマイク部分に告げた。
『ひいろ、お任せよろしく』
ひいろはすぐに行動した。ジャスミンティーを用意し、カウンター席に座ったハムスターへ運ぶ。こうすることにも慣れて、余裕ができつつある。
ハムスターはカウンター席でうつむいていた。背中に黒い筋が入っている以外は真っ白で、白いまんじゅうが置いてあるようにも見える。
「どうしたんですか?」
ひいろが声をかけると、ハムスターはジャスミンティーを一口飲んでから黒真珠のような目をうるませた。
「僕は……飼い主のさっちゃんを助けてあげられない!」
小さな体からは想像できないくらい大きな声で泣く。ひいろはカウンターの内側に忍ばせていたおしぼりをハムスターに手渡した。
「飼い主さんに困りごとがあるんですか?」
「友達からもらった大切なものを、なくしちゃったんだ。きっとタンスとかの後ろに入ってる。僕なら小さいから、そういうところに入って探せる……でも僕は食べ物じゃないとにおいがよくわからない! だから見つけられない! ごめんねさっちゃーん!」
ハムスターはカウンターに突っ伏して泣く。ひいろは食べ物の話に抜けたものを感じたが、忘れたことにしてハムスターの背中をさすった。モコモコぷくぷくで気持ちいい。
「それはつらいね」
普通の言葉を使ってしまったが、ハムスターが構わない様子なのでこのまま行くことにする。
ハムスターの上を見ると、桜に似た花が浮かんでいた。だんだん変化して、キュウリのようなものができた。片方の端が杖の握る部分のように折れ曲がっている。
「じゃあ、ちょっと待っててね」
泣き声が静かになったところで、ひいろはハムスターから離れた。ハムスターは顔を上げて、すがるような目でひいろを見送る。
「お願い……」
ひいろが厨房に入ると、ハツユキは妙にけわしい顔をしていた。
「どうだった?」
「飼い主がなくしたものを見つけてあげたいんだって。浮かんで見えるのは、折れ曲がったキュウリ。昨日の相談で使ったジーサンサカハナの実みたい」
「余っているからちょうどいい。魔法の素は腐らないんで、いくらでも保存できる」
ハツユキはすぐにツナサラダのクレープを作ってくれた。その途中でジーサンサカハナの実を棚から取り出し、スライスして中に入れていた。
「さあ、持っていってやれ」
ひいろはうなずいて、クレープをハムスターへ運んだ。
「うわ! おーいーしーそー!」
クレープを見たハムスターは、丸い目を見開いた。さっきの泣き顔は何だったんだと思えるほどの喜びよう。ひいろがカウンターへ置く前に、手を伸ばしてクレープを取る。
「いっただっきまーす!」
ハムスターならほっぺたにためるのかとひいろは思ったが、他の動物と同じように食べていた。ただし、食べる勢いはすさまじい。
(こんな食いしん坊は治せないけど、ジーサンサカハナの魔法を使えば……)
食べ終えたハムスターは、念話番号のカードを受け取ってから笑顔で帰っていった。それからひいろたちがしばらく仕事を続けたところで、念話玉が鳴った。
ひいろはすぐに厨房に入った。もうハツユキが念話玉に手をかざしていて、どこかの部屋が映っていた。
「さっきのハムスターが住んでるところだ」
低い棚の上に金属のケージが置いてある。回し車で爆走しているのは、ここに来たハムスター。
『チビぽんただいまー!』
ドアが開いて、入ってきたのは中学生くらいのお姉さん。ハムスターがいっていたさっちゃんだろう。
『チビぽんおなかすいた? 今すぐごはんにしようか!』
さっちゃんはケージにしゃがんで声をかけてから、部屋を出ていった。
すぐに戻ってきて、ケージの上を開けた。手に乗せた野菜をハムスターに近づける。ハムスターを手に乗せて食べさせるつもりか。
「今しかない!」
ひいろはブレスレットを肉球手袋に変え、猫耳しっぽを出した。
「目覚めよ魔力!」
光が水晶玉へ移り、さっちゃんの手に乗ったハムスターが食べる以外の行動を起こした。
鼻をひくつかせて、さっちゃんの手――腕をよじ登る。
『どうしたのチビぽん?』
さっちゃんが止める間もなく、ハムスターは肩まで登り切った。そのままダイブして床へ着地し、駆け出す。ぷくぷくした外見に似合わない、素早い動きだった。
『脱走しちゃ駄目だよチビぽん!』
ハムスターはいうことを聞かずに机と壁の隙間へ入って、すぐ出てきた。
口にくわえて引っ張ってきたのは、マスコット付きボールペン。
『そんなところにあったの? チビぽん、見つけてくれてありがとう!』
さっちゃんはハムスターを捕まえてケージに戻し、ボールペンを拾った。ひいろはホッとした。
「うまくいってよかった。ジーサンサカハナの魔法は感覚を鋭くしてくれるから、普通なら見つけられないものを見つけられるようになる。あの程度なら『ペットが偶然ファインプレー』って感じで、ケモノ界のことがばれたりしない」
念話玉の中では、さっちゃんがハムスターに食べ物を追加していた。役立ってくれたからご褒美のようだ。ハムスターはごちそうを頬袋に詰め込んでから顔を上げた。
『ありがとう!』
ひいろは嬉しかったが、ほっぺたがふくらんで別の生き物のようになったハムスターを見ると吹き出すのを我慢せねばならなかった。
『〈まじしゃんずきゃっと〉では人間が魔法で助けてくれるって噂、本当だったんだね!』
ハムスターが付け加えたとおり、ひいろが魔法で悩みに対応することは動物たちの間へ広まりつつある。ひいろとしても頼られるのは気分がいい。
(今のあたしだと、クレープの魔法は一日に一回しか使えない。何回もできたら、もっとたくさんの動物を助けられるのに)
一方、ハツユキはまだ難しい顔をしていた。いつもならひいろが喜ぶと一緒に喜ぶが。
「冷たい風か……アーデルハイトの昔話にもそういうのがあったな」
ひいろは、そんなつぶやきに気づいていなかった。
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