第二話
1 エプロン
翌朝、ひいろはいつもどおりに学校へ向かっていた。通学路には今日も他の生徒が大勢いて、ひいろのクラスメートたちもあいさつを交わしている。
そんななか、ひいろは誰とも話さずに進む。それがひいろの「いつもどおり」だ。
学校のそばまで来たとき、ひいろの横に白い車が止まった。降りてきたのはバネバネバ。
(朝からこいつに会うなんて、ついてないな)
バネバネバは偉そうに話しかけてくることも高笑いすることもなかった。
「お……おはようございます、有末さん」
「え、えっと、おはよう」
ひいろは違和感に包まれた。バネバネバはひいろを見たりよそ見したり。
「何と、申しましょうか……今までわたくしは、昔のことばかり話していたわけですが」
言葉を選びながら話していると、落ち着かない様子からわかる。
「わたくしたちは、もう五年生なのですし、過去のことより未来のことを議論するべきだと思うんですよ。そ、その方が有意義でしょう?」
「それは、そうだけど……」
ひいろはバネバネバの後ろを見てギョッとした。
車の中にいるピピは、白いとわかりやすい姿。色とりどりのリボンが全て消えていた。
バネバネバのお父さんが運転する車はすぐに走り去ったが、その前にピピはひいろを見ながらキャンキャンいっていた。それを聞いたひいろは、水晶玉越しのお礼を思い出した。
(やっぱり、昨日のことは夢じゃない!)
昨晩〈まじしゃんずきゃっと〉からマンションの部屋へ戻ったひいろは、ベッドで横になっている自分の体と重なった。それだけで人間界に帰ることができた。
そうすると、〈まじしゃんずきゃっと〉のことは夢だったんじゃないかと思えてきた。ビーズのブレスレットも腕になかったので、余計不安になった。〈まじしゃんずきゃっと〉でのことは鮮明に覚えていて、眠ってからも夢の中でピピに相談されたり魔法を使ったりしていたが。
(あっちでのことを誰かに話してみようかな。いや、また変な子扱いされるだけだ。ケモノビトはひっそり暮らしてるとかいってたから、黙っておいた方がいいだろうし)
「ほら、有末さん。ぼうっとしていないで行きますよ」
バネバネバは校門に走っていった。ひいろは後を追おうとしたが。
「よかったね。友達ができて」
急に声をかけられて立ち止まると、優しげなお姉さんが道のわきでほほ笑んでいた。
「祭部先生?」
ひいろたちの担任祭部恵美先生は二十五歳。ぽっちゃり型で、背丈はひいろよりあるが大人にしては小さい方。いつも教室でニコニコしているのは通勤中の今も変わらない。
「馬場さんの車が止まる前辺りから見てたけど、すごくいい顔だったよ? 幼稚園が一緒だっていってたのに話してないみたいだったから、気になってたのよ」
ひいろは顔が熱くなったと感じた。
「それはきっと、バ……馬場さんのお陰じゃないです」
「じゃあ、彼氏ができたとか?」
「えっと……」
まごついていると、先に行ったバネバネバが戻ってきた。
「先生、こんなところで話していていいんですか?」
「あー! 今日は遅れちゃったんだった!」
祭部先生が慌て始め、ひいろは呆気に取られた。
(うちの先生はあたしたちと同じように漫画を読んだりアニメを見たりするから生徒に人気があるけど、変に抜けてるっていうか)
「それじゃあ、気が向いたら教えてね!」
祭部先生が駆けていって、ひいろとバネバネバはまた校門へと向かった。
放課後、家に帰ったひいろは夕食を早めにすませてから行動し始めた。部屋にしっかりカギをかけて、イスに座る。
「昨日、ハツユキがケモノ界側でこの部屋の前まで送ってくれたっけ。そのときに習った方法は……」
ひいろはハツユキから聞いた言葉を思い返した。
「あっちの世界へ」
唱えるなり意識が揺らいで、気が付くと違和感が辺りに満ちていた。
ここは、ひいろの部屋であってひいろの部屋ではない。ベッド――昨日のひいろがケモノ界から人間界へ戻った場所には、アーデルハイトのブレスレットが転がっていた。
立ち上がると、座った姿勢のひいろが残された。人間界側にある、ひいろの抜け殻だ。
「帰りがけにハツユキがいってたっけ。アーデルハイトはさっきの呪文とブレスレットで体ごと移動してたとか。あたしはそこまでできないみたい……何これ?」
ひいろは吹き出してしまった。
立つときにイスをずらしたが、人間界側のひいろは座っている場所も姿勢も変えない。まるで空気でできたイスに座っているようだ。
「ケモノ界ではイスを動かしたけど人間界ではイスがそのままだから、こうなるんだ」
ケモノ界でものを動かして人間界でも同じように動くなら、ケモノビトや動物がイスを動かすだけで人間界にポルターガイスト現象騒ぎが起きる。
「このままにしておいたら、あたしの体はずっと空気イスのままなのかな」
人間界では普通に座っているとしても落ち着かない。ひいろはイスを戻しておいた。
ブレスレットもしっかりと両手首に付けた。ないと魔法を使えないし、ケモノ界に居続けることもできない。ひいろがケモノ界に来る方法も、ケモノ界側にこれが置いてある場所でさっきの呪文を唱えること。
ブレスレットがある場所で眠るだけでもケモノ界へ行けるようだが、確実にできるとは限らない。ひいろは昨日の夕方から眠ったときにケモノ界で目覚めたが、お風呂に入ったりしてから寝直したときは朝まで人間界でぐっすりだった。そもそも寝ようとして必ず寝られるとは限らないので、呪文がないと困る。
(教室のケモノ界側にもこれがあったら、授業中にこっそり来られるよね。ハツユキたちに教室まで持ってきてもらうとか)
そうするわけにはいかないと気づく。帰りがけにハツユキから聞いた話を思い出したからだ。
(これはアーデルハイトが残した魔法具で、ハツユキの家に伝わってて……作り方がわからないし一組しかないからなくさないようにいわれたっけ)
あちこちへ持ち歩いている間になくしたら大変だ。
(教室で抜け殻になったあたしが、病気で気を失ってると勘違いされても困るか。第一、人にものを頼むってあんまりしたことないし)
ひいろは足早に部屋を出た。
(今日も相談があるかな。また喜んでもらえるといいな)
〈まじしゃんずきゃっと〉のドアは、昨日と同じくストッパーをかまされて閉じきらないようになっている。ひいろはわくわくしながら開けて、中に入った。
「よう、ひいろ」
ハツユキが厨房から顔を出した。テーブルをふいていたムギは駆け寄ってくる。またタヌキのしっぽを楽しげに振っていた。
「今日も来てくれたんだね!」
「うん。いろんなことに早く慣れたいから」
「だよね。あ、また人間のことを教えてよ! エスカレーターは中に人間が入ってて一生懸命動かしてるって本当?」
「えっと……あたしも仕組みはよく知らないよ」
ひいろはムギの妙な誤解にあきれたが、少なくとも喜んでくれているのは間違いないので嬉しさを感じた。ハツユキも昨日と同じように活力のある笑みを向けてくる。
「俺としても、来てもらえると助かるぞ」
ハツユキが厨房へ引っ込んで、ひいろの後ろでドアがチリンチリンと鳴りながら開いた。ひいろは客が来たのかと思いながら振り返ったが、入ってきたのはスミ。
「お帰り、スミ!」
「ただ今戻りました」
ムギが明るく迎えたのに対し、スミは静かに返事した。
「ひいろ、よく来てくれました」
ひいろにも短い言葉をかけただけで、さっさと厨房へ向かう。
(ハツユキやムギとは違いすぎるっていうか……嫌われてるわけじゃないよね?)
スミが厨房に入ると、水音がし始めた。ひいろは店に帰ってきたスミの姿を見たので、何をしているのか想像できた。
(手が泥だらけだったけど、もしかして手を洗ってる? 犬だからって、まさか……)
どうして泥まみれだったのか気になる。とはいえ、とっつきにくそうなので問えない。
考えていると、ハツユキが厨房から出てきた。持ってきたものをひいろに差し出す。
「これを渡しておく」
ひいろはしぼみかけていた期待がまたふくらんだと感じた。
〈まじしゃんずきゃっと〉の猫マークが入ったエプロン。その上に乗せられたインカム。ハツユキたちが身に付けているものだ。
「あたしの分?」
「よかったね、ひいろ!」
嬉しそうにしてくれたムギへ、ひいろは大きくうなずいた。
ひいろは店の更衣室に入り、普段着の上からエプロンを付けた。大きさはぴったり。
インカムをはめると気が引きしまった。これからすることは楽しいはずだが、客の相手をするのだから遊びではない。
店へ戻ったときには客が何匹か来ていた。猫にウサギにハムスターだ。もっとも、客の姿は他にもある。
(仕方ないんだろうけど……)
ケモノ界からは人間界が見える。つまり、人間界側の店にいるひいろの親や人間の客が見える。
触ろうとしてもすり抜ける。動物の客には、人間がいる席をさけるものもいる。人間がいても気にせず座るものもいる。
ひいろは人間たちに構っていられない。どう働けばいいか覚えねばならないので、店の隅からハツユキたちの動きを観察していた。
三人は大まかな分担を決めているようだった。ハツユキはクレープ作り、ムギは注文聞きなどの接客、スミは皿洗い、と。クレープや使い終わった食器を運ぶのは、手のあいているものがする。
来ていた動物が帰ると、ひいろはメニュー表を手に取った。注文されたときにメニューを覚えていなくて「そんなのあったっけ?」では話にならない。料理の名前と写真を一つ一つ見ているうちにムギがコップを厨房に運んでいって、代わりにハツユキが出てきた。
「ここまでの仕事で疑問に思ったことはあるか?」
すごくある。昨日から気になっていることが。
「動物たちから受け取ってる玉、本当にお金なの?」
「ピンと来ないのはわかる。ケモノ界のお金ケモバイカ……通称KBは、人間のお金と随分違うからな」
「カバじゃなかったんだ……何でできてるの? 金属じゃないし、プラスチック?」
「材料も特殊だ。ケモノ界は人間界に住む生き物の心から影響を受けやすく、感情エネルギーが流れてくる。その中でも喜びや楽しさなどの明るい感情からKBを作るんだ。ケモノビトや人間界から来た動物ならできるぞ」
「お金を自分で作れるってこと?」
「やってみせるか」
ハツユキは手のひらを上に向けて目を閉じた。
しばらくすると手の上に揺らぎが生まれ、豆粒くらいでピンク色の玉が現れた。
「これで一KB。俺は三十秒でこれだけ作ることができる」
厨房から戻ってきたムギは、「僕は調子がよければ一分で一KB作れる。ハツユキは結構うまい方なんだ」と付け加えた。
「お小遣いをパッと出せるようなものじゃん! すごい!」
ひいろは驚くばかりだったが、ハツユキは苦笑い。
「すごいというほどじゃないぞ。俺の『三十秒で一KB』は、一KB=一円で計算すると一時間ぶっ通しでやっても百二十円。時給百二十円といえば大した額じゃないだろう。もちろんKB作りの集中は疲れるから休憩が必要となり、一時間当たりの額はもっと下がる」
ひいろはファーストフード店にあったアルバイト募集のはり紙を思い出した。時給七百円とか八百円とか書いてあったはず。同じように疲れるのなら、アルバイトをした方が効率的ということになる。
「持っているKBは、ムゲンポシェットに入れておくのが一般的だ」
「それって、動物たちが持ってるポシェットのこと?」
「ああ。入れるときは放り込むだけ、出すときはいくらにするか念じながら手を入れるだけでその額のKBが出てくる、と便利だ。ひいろも近々持つといい。KBを作れるかどうかはわからないが、アルバイト代を入れておくものはあった方がいい」
「あたし、アルバイト代もらえるの?」
「持っていて損はないだろう。お金が必要になることもあるかもしれない」
ひいろは小学生がアルバイトをしていいのかと思い、すぐに打ち消した。よその世界に来てまで学校のルールに従うべきとは思えない。
ハツユキは最初からそのようなことを気にしていない顔だった。明らかにひいろより年下のムギが働いているくらいなので、ケモノビトには普通のことなのかもしれない。
「ケモノ界での取り引きにはKBが必要だ。何せケモノ界で作られたものは全てKBでできているんだからな。食べ物も、この店の看板も」
ひいろは耳を疑った。
ハツユキは一KBの玉を指先でつまんだまま目を閉じて――だんだん玉が変化し始めた。四角くなって、黒っぽい色が付く。
「チョコレート完成だ」
チョコを手渡され、ひいろはまじまじと見つめた。スーパーやコンビニで売っているものと変わらないように思える。
「こんなことまでできるんだ。じゃあハツユキはクレープの材料もこうやって作るの?」
ハツユキは口を大きく開けて笑った。
「おいおい。喫茶店をやっているお前の親は、店で出すコーヒーの豆を自分で栽培するのか?」
「そんなわけないよ」
「やろうと思えばできるはずだ。畑を用意して、コーヒー豆の育て方を勉強して」
「そこまでやってたら大変だって。買ってきた方が早いし、いい豆が手に入る……」
ひいろは自分でいって理解した。ハツユキもうなずく。
「俺もやろうと思えば小麦粉や生クリームを作れるが、食材作りの専門家じゃないから仕上がりが雑になる。それ、食ってみろよ」
ハツユキ作のチョコを口に入れたひいろは、病院の薬を思い出した。とてつもなく苦く、ビターチョコどころではない。ハツユキはコップに水を注ぎ、ひいろに差し出す。
「だから俺は、食材作りがうまいケモノビトにKBを払っていろいろと仕入れる。問屋ケモノビトに注文して、届けてもらうんだ」
ひいろは水をぐっと飲んだ。
「ふぅん……そういえば、どうしてクレープなの?」
「人間界の動物に食事させることさえできればいいから、うどんやどんぶりの店でもいいんだけどな」
ハツユキは軽く告げて、ひいろに拍子抜けさせた。
「クレープを選んだのは、アーデルハイトの得意料理だったからだ。俺たちが生まれ育った村の名物料理でもある」
そう口にしたハツユキは、出会ってからの中で一番楽しそうな顔だった。
「それに、クレープは自由だ。生クリームやカスタードクリームを使えばおやつに、ピザチーズやウインナーを使えばごはんになる。更にアイスクレープの材料をカップに入れればアイスクリーム、ピザチーズやウインナーをパンに乗せて焼けばピザパンと、他の料理につなげることもできる。店に出す料理の幅が広いのはいいことだ」
いろいろなメニューがあれば、動物が幅広く来てくれる。それだけ悩める動物が集まりやすい。ひいろはそう思うと胸がドキドキした。
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