2 明かり
次にひいろが身を起こしたとき、部屋の中は真っ暗だった。
「夜……何時くらいだろ」
ベッドから離れて、部屋の明かりをつける。壁の時計を見ると、九時を随分過ぎていた。
「あれ……?」
妙な感覚がした。ようやく慣れてきたこの部屋が、寝る前と違うような気がする。たとえるなら、空気が全部入れ替わったような。
「一階の店に行ってみなよ」
急に声がして、ひいろは心臓を跳ねさせた。甲高く、家族のものではない。廊下のあるドアからのものでもない。知らない人の声がベランダから聞こえた。
(泥棒?)
ひいろは背筋を冷やしたが、恐怖はすぐに疑問へ変わった。泥棒にしては、入ってこようとする気配がない。
(一体何なの)
おそるおそるカーテンに近づいた。役に立つかどうかはわからないが、武器代わりに机の上のリコーダーを握っておく。
心の中で「せーの!」といいながらカーテンを開けると、ベランダには誰もいなかった。寝る前にいたスズメたちもだ。
ただ、鳥の羽ばたく音が聞こえた。ベランダから飛び去る影も見えた。
(鳥にしては大きくなかった?)
念のため、ガラス戸を閉めたままでベランダを見渡してみた。やっぱり誰もいない。
(もしかして、別のガラス戸から入った? ベランダは居間にもつながってる!)
ひいろは部屋のドアに駆け寄って、廊下へ出た。忍び込んだ泥棒にばったり会ったら危険だと気づいたのは、居間に足を踏み入れたときだった。
居間は、ひいろにとって予想外の状況だった。
明かりがついていて、お父さんとお母さんがのんびりとコーヒーを飲んでいる。慌てているひいろとはあまりにも違う、いつもどおりの風景。仕事から帰ってきたところだ。
「お……お父さんお母さん! 外に何かいる! 泥棒か変な鳥かわからないけど!」
ひいろは気を取り直して、まくし立てるように告げた。しかし、二人とも振り返らない。
『夏になったら店でかき氷も出そうか』
『シロップをいろいろ用意しないと』
ひいろは二人の声を聞いて不思議に感じた。目の前でしゃべったのに、電話の向こうにいるような聞こえ方だったからだ。
「それどころじゃないよ!」
ひいろは必死で話しかけた。お父さんがソファーから腰を上げて、ひいろに身を向ける。
『そういえば、ひいろはまだ寝てるのかな。ちょっと見てくるか』
近づいてきて――ひいろをすり抜けて廊下へ出た。
「何、今の?」
振り返ると、お父さんは何ごともなかったように歩いていた。ひいろはぞわりとしたものを感じながら追いかけた。
お父さんはひいろの部屋に入ってベッドに近き、小さくほほ笑む。
『着替えもせずに寝るなんて、仕方ないな』
また廊下へ出ていって、入れ替わりにベッドへ近づいたひいろは冷凍庫へ放り込まれたような寒気に包まれた。
ベッドには、ひいろ自身が横たわっていた。
「あたし、死んじゃったんだ。幽霊になって……」
凍えるような気分はどんどん増していく。
「お父さん、あたしが死んでるなんて思わなくて……あたしだって、起き上がったときに自分の後ろなんか見てなかったよ」
ハッと気づいた。よく見ると、ベッドのひいろは小さな寝息を立てている。
「そういえば、さっきあたしはカーテンやドアを開けたり電気をつけたりした。幽霊ならそんなことできる? すり抜けちゃうんじゃない?」
どうしていいかわからないまま部屋の中を見渡して、目を止めた。枕もとに見覚えのないものが置いてある。
透明のビーズで作った輪が二つ。ブレスレットだろうか。恐る恐るつまんでみると、どちらにも小さなプレートが付いていた。しっぽの長い猫が刻まれている。
「幽霊みたいになったあたし、このブレスレット、ベランダの声……何が起きてるの?」
つぶやいてみたが、答えは出ない。ただ、ベランダから聞こえた声を思い出した。
「一階の店に行けば、何かわかるのかも」
ブレスレットをポケットに入れる。もう、泥棒が来ただけとは考えられなかった。
マンションの外に出ても、雰囲気がおかしいのは同じだった。むしろおかしいことが他にもあって、異変をよりはっきり感じられた。
暗い空から何度かバサバサと翼の音が聞こえてきた。人間くらいある影が動くところも見えた。大きな鳥に襲われたら泥棒より危ないんじゃないのか、ペリカンですら実は凶暴らしいと、ひいろはつばを飲んだ。
何より奇妙なのは、マンションの一階。お父さんとお母さんが帰っているのだから今日はもう閉店しているが、窓の向こうにこうこうとした明かりが見える。
看板も〈ビューティフルスカイ〉の上から別のものを付けられていた。
(〈おいしいクレープいっぱい! まじしゃんずきゃっと〉? うちじゃクレープなんか出してないのに)
ドアには〈本日OPEN!〉というはり紙まであった。店内に何人もいるようで、にぎやかな声が聞こえる。
(一体何者?)
ひいろはドアにすり足で近づいた。何が出てくるかわからないので怖いが、引き返したら異常事態の原因が永遠にわからなくなる気がする。親がせっかく始めた店を勝手に使うなともいいたい。どのみちどうすれば元に戻れるかわからないので、前へ進むしかない。
すぐそばまで行くと、ドアはカギを外されているどころかストッパーをはめられてすき間ができるようにされていた。
ひいろはノブをそっとつかみ、意を決して開けた。
「誰なの?」
ドアに付けたベルがチリンチリンと鳴ったのはいつもどおり。
ひいろが店内の空気に触れて最初に感じたのは、いいにおい。クレープと看板に書いてあったので、生地を焼いているのかもしれない。
そして店内にいたものたちが一斉にこちらを見て――ひいろは言葉を失った。
いつもなら、デートに来た大学生がコーヒーを飲んでいる。親子連れがおしゃべりしながらジュースやホットケーキを楽しんでいる。
今は、クレープを食べたりジュースを飲んだりしている人たちがいた。
違う。人とはいえなかった。
クレープやガラスのコップを持っているものは、手ではなく前足。顔は犬や猫。服を着ていない体にも、動物らしい毛並みがある。化粧室から現れたペルシャ猫は、後ろ足だけで立って歩いていた。
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