第9話「負けないもん」
「――それで目を覚ましたら、寝ぼけた獣のお兄さんに……!」
寝間着から外出用の私服に着替えて寝室に戻ると、神楽坂さんがまだブツブツと何か独り言を呟いていた。
こちらに背を向けているからか、俺が入ってきた事に気付いた様子もなく両手を頬に当てながら身悶えている。
ドアが開いた音にも気付かないくらい集中していて、いったい何を考えているのだろうか?
音を立てずに目の前に回り込んでみると、なぜか顔も真っ赤にして蕩けた目をしながらはぁはぁ言っていた。
男の欲望を掻き立てるような危険な表情だ。
「そのまま私はお兄さんに――!」
「お兄さんに?」
「…………えっ?」
一人熱中している神楽坂さんの言葉を繰り返してみると、状況を把握できていないのか神楽坂さんはフリーズしてしまった。
そして状況を把握すると、みるみるうちに目に涙が溜まっていく。
「お、お兄さん……いつからそこに……?」
「今来たばかりだよ」
「どこから聞いておられましたか……?」
「『そのまま私はお兄さんに――!』ってところかな」
「そ、そうですか……」
俺が聞いていた部分を告げると、まだ聞かれても大丈夫だった部分なのか、神楽坂さんはホッと息を吐いて安堵する。
今の内容で安堵するなんて、この子はいったいどんな事を考えていたのだろうか?
なんだか聞いてはいけない、とんでもない事を考えていたような気がする。
俺は俯いてしまった神楽坂さんをジッと見つめながら、先程の様子に少し戸惑っていた。
すると、息を整えたらしき神楽坂さんがニコッと笑顔を向けてくる。
先程まで真っ赤だった顔色がもう引いているなんて凄いところだ。
「お兄さん、女の子の独り言を盗み聞きなんていい趣味をお持ちのようですね。須山さんに報告が必要でしょうか」
「そうやってすぐ佐奈を持ち出すのはずるくないかな!?」
「お兄さんが盗み聞きなんてするからです!」
あっ、どうやら平然を装っているだけで内心ではかなり動揺をしているようだ。
やはり聞かれたくない内容だったのだろう。
いったい俺を使って何を想像をしていたのか気になるところだけど、ここで下手に踏み込んで本当に佐奈に報告をされたらかなわないので、俺は我慢をして聞くのをやめた。
「ごめんごめん、それで何処から片付けようか? やっぱり上からだよね?」
物は重力によって上から下に落ちる原理なため、先に下の掃除をしてから上を掃除するとほこりが下に落ちてしまい、再度下を掃除しないといけない二度手間になってしまう。
だから俺はまず上から掃除をするのかと聞いたのだが、なぜか神楽坂さんは首を横に振った。
「違うの?」
「もっと優先して片付けないといけない物があります」
「えっと、それは?」
「
なぜ元という部分だけ強調して言ってきたのだろう?
それに元カノの物を片付けるって……。
「捨てるって事? だけど取りに来るかもしれないし……」
「必要な物でしたら、別れ話を切り出す前に取りに来ていますよ」
「いや、でも……」
「もし気になるのでしたら、段ボールに詰めて送ってあげるといいです。向こうからは嫌味な男と思われるかもしれませんが」
確かに、別れたからといって今まで彼女が使っていた物を送ってしまうと、嫌がらせのように捉えられるかもしれない。
少なくとも俺だったら、当て付けかよと思って嫌な気分になる。
「取りに来るまで置いておくという手は――」
「だめです!」
勢い強く言われ、俺は思わず一歩下がってしまう。
そうすると、不機嫌そうな神楽坂さんがグッと顔を近付けてきた。
「このままだとお兄さん、ずっと元カノさんの事忘れられませんよ! ちゃんと前に踏み出してもらわないと困ります!」
「だ、だけど、別れたのは昨日だよ? そんな簡単に切り替えられるわけがないじゃないか」
「だからこそ、まずは元カノさんに関わる物をちゃんと捨てるのです! そうすれば、自然と元カノさんの事も忘れられますよ!」
「別に捨てなくても、時間が経てば忘れられるよ……」
「本当に忘れられますか? 今のように置いておこうとすると、その物が視界に入るたびに元カノさんの事を思い出してしまうと思いますよ? そして苦い思いが込み上げてきて、お兄さんは苦しむ事になるんです。それならいっそ、捨ててしまったほうがいいじゃないですか」
どうやら神楽坂さんは本気で俺の事を心配して言ってくれているらしい。
確かに神楽坂さんの言う通り、終わった事をいつまでも引きずっていては駄目だろう。
ここで元カノの物を捨てる事でこの思いに一区切りを付けられるという事だ。
「わかった、捨てるよ」
結局俺は、神楽坂さんの言う通り元カノが使っていた物を捨てる事にした。
とはいっても、実際に片付けを始めて出てくるのは日常品がほとんど。
しかももう数ヵ月使われていない物ばかりだ。
それらを見てわかったのは、とっくに元カノの気持ちが俺から離れていたという事。
どうしてこんな事になる前に気付けなかったのか、本当に後悔だけが残る。
「――お兄さん、元気を出してください。お兄さんにはちゃんと私がいますよ」
元カノが使っていた物をゴミ袋に入れていると、いつの間にか神楽坂さんが傍に立っていた。
そしてかわいらしい笑みを浮かべて俺の事を励まそうとしてくれている。
やっぱりなんだかんだいって、この子はとてもいい子のようだ。
たまに押しが強かったり変なところもあるけど、それを差し引いても魅力的な子なのだろう。
同じ学校の男子生徒からモテるというのも納得がいく。
「大丈夫だよ。それよりも早く終わらせて、買い物に行こうか」
いつまでも年下の居候に情けないところを見せてはいられないと思った俺は、笑顔を作って手を動かす速度を上げた。
神楽坂さんはそんな俺の事をジッと見つめていたけど、特に何かを言ってくる事もなく同じように自分も手を動かし始めた。
「……絶対負けないもん」
俺がゴミ袋を括って新しい物に変えようとしていると、神楽坂さんは何やらまた一人でブツブツと言っていたが、話し掛けてはいけない雰囲気を纏っていたので俺は自分の掃除に集中するのだった。
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