月曜日 街に帰る

「人間は基本的に群れとともに生きる生き物です。」

 高校の生物の教師はそう言ったあと次のように続けた。自身の群れに富をもたらし、その富の見返りに群れの庇護を受ける。それが群れるということです。富を生まない個体は放逐され野垂れ死ぬのです。そしてこの世の富は有限で、ある群れが富んでいるということは、どこかの群れは貧しいのです。

 そのとき僕にはピンとこなかったけれど、今ならよくわかる。僕の会社が安泰であるということは、どこか別の会社が競争に負けて誰かが失業しているということだ。僕が食えているということは、どこかで食えない誰かが生まれているのだ。

 生まれたばかりの僕らは誰もが無知ゆえに純粋であり、悪意のかけらもない生き物であったはずだ。それなのにいつの間にかそういう構造に組み込まれていく。時には悪意を持ってそういう構造に進んで飛び込んでいく人もいる。僕はもはや子供ではないので、そんなことを論って募金を募ることはしないけれど、いくつになってもそういうことが許せない人もいる。江口もそういう部類の人間だった。

 しかしどんなに嫌だろうと明日は来るし、人間は死ぬまでは生きていかなければならい。それが嫌ならばスイッチをオフにするしかない。建築学科で死んだ女の子のように。幸い僕にも江口にもそれをやってしまうだけの勇気も、行動力も、理由もなかった。そうなるとだらだらと生き続けるしかない。


 会社の独身寮に帰る日、僕は江口と白百合で会った。

「東京を出ようと思う。」

 江口は言った。

「出てどうする?何かあてでもあるのか?」

「大阪で、親戚が商売をしていてね、しばらくそこで働かしてもらう。」

「なんで急に今さら。」

「いいかげん俺も真面目に生きなきゃね。もう三十だし。遊んでいても金が入る今の状況がおかしかったんだ。」

「十分だけ忠告させてもらっていいかい。あとはもう何も言わないから。」

「ああ。」

 僕はコーヒーを一口飲んでから口を開いた。

「僕の会社の工場のある製品はね、だいたい一万個生産すると一個の不良がでるんだ。理由はいろいろだけど、まあだいたいそれくらいだね。すごいことだろう。一万回やって一回しか失敗しないんだぜ。」

「すごいな。」

「でもね、それが許せないやつがいる。もっと減らせってね。そういうやつのために、工場の社員が何百項目の機械のチェックリストを作って、毎日何時間もかけて点検をするんだ。それでも納得できなくて今度は見張りを立てる。パートさんが製品が流れてくるコンベアの横に立ってね、何時間も来るかどうかもわからない不良品に目を光らせる。立ちっぱなしだから腰をやられるし、目だって悪くなる。」

「俺には無理だな。」

「俺にだって無理さ。でもね、それだけやって得られるものなんてほとんどないんだぜ。人の命に係わるような製品じゃないからね、たとえ不良が出たって、営業が10分ばかり電話で詫びを入れて交換品を送ればいいだけさ。今ならメールだっていい。とにかくどっかの誰かの自己満足のためにみんなが苦労してる。」

 僕はいったん言葉を区切り江口の様子を伺った。彼は難しい顔して何かを考えているようだった。

「だいたいの仕事は百点のうち七十点とれれば、本当は誰も困らないものなんだ。それでも百点をとろうとすると七十点の労力の二倍も三倍も大変だ。七十点とるなら十の労力で済むのに、百点をとろうとすると、三十も力を使う。完璧さっていうのはそういうものさ。」

「なんとなくわかるよ。」

「皆まじめすぎる。良くも悪くもね。無理に周りに合わせようとするし、七十点でだれも困らないのに百点をとろうとする。百点とらなきゃ駄目だといいだすやつも出てくる。そういう余計な努力が世の中を息苦しくしている気がするよ。そんなことで誰も幸せになれないのにね。」

「そういうものかね。」

「うまく言えないけど、こうしなきゃいけないとか、こうすべきなんていうのは、声のでかいやつが勝手に言っているだけで、本当にそうあるべきかなんて、誰にもわからないんだ。あるいはその本人にとって都合がいいからそう言っているだけさ。気を病んだりする必要はないよ。」

「本当にそう思えたらすごく楽だよ。」

 江口は、その日は約束があると言って、一時間で切り上げていった。僕はまだ時間があったので、しばらく本を見て、過ごした。

「今日帰るんだってね。」

 客が僕しかいなくなったところで、マスターが声をかけてきた。

「うん。次会うのは、きっと年末ですね。」

「江口君と話をできたのかな。なんだか最近塞ぎ込んでいたけれど。」

「いつも通り何も教えてくれなかったよ。」

「変なところで真面目だからね。」

「あいつは考えすぎなんだ。もっと気軽に生きていけばいいのに。」

「でもね、皆考えちゃうんだよ。何十年も生きているとね。自分の生き方に何か意味を持たせようとするんだ。仕事でも家族でも、趣味でも何でもいいけれど、自分の生き方は無意味じゃないって思いたいんだ。」

「マスターは?」

「俺は、うまくもまずくもないコーヒーを出して、ときどきお客さんの話し相手になるのが仕事さ。世の中にとって何の役にたっているかわわからないけれど、とにかく俺はこれが自分の役割だと思っている。」

「大いに役立っているさ。少なくとも僕と江口はマスターに会いに来ているんだ。

「ありがとう。とにかくそういう人生の指針みたいなものが見つかるとあんまり悩むことはないね。あんたにも何かあるだろう。」

「人生なんて死ぬまでの暇つぶしじゃないかな。昔の本に書いてあったよ。」

 僕がそういうとマスターは少し考え込んでから口を開いた。

「皆がそこまで割り切れたらいろいろ楽だろうね。でもそんな風に思えない人のほうが多いんじゃないかな。」

「もっと皆が気楽に生きられればお互い幸せになれると思うよ。」


 帰りの新幹線に乗り、一駅目を過ぎたあたりで、僕はふいに、自分はもう三十になったのだなと思った。当たり前だけれどもほんの少し前まで二十代であり、その前は十代であったような気がする。僕は自分の精神の在り方について、十代と三十代にどれほどの違いがあるのかがわからなかった。読む小説も聞く音楽も、大して好みが変わることがなく、仕事用のよそ行きの顔ができただけで、根っこの部分はまるで変わっていない。けれども風呂上りに洗面所の鏡を覗き込むたびに時間の経過というものを強く認識せざるを得なくなる。たるんだ顎に白髪交じりの髪の毛、疲れた表情と汚れた皮膚。週三回のプール通いも、時間を止めることができず、誰がどう見ても十代の体には見えなかった。

 この十年で、僕は一体何を得たのだろう。次々と表れては消えていく街の灯を見ながらそんなことを考えた。平均よりやや多めの貯金と死んだ時間というのが結論だった。そして僕の精神は十代の頃からほとんど成長していない。一体こんなことに何の意味があるのだろう。

 三十代というのは難しい年頃なのだなと思う。夢だとか希望だとかを何もかも捨ててしまうにはまだ若すぎるけれども、かといって何かゼロから始めるには遅すぎる。僕も江口もこのままあてどない気持ちを抱えたま、何物にもなれぬまま四十歳になるのかもしれない。

 しかしどこかの誰かが言っていたように、遠くから見ればよい生き方も悪い生き方も大した違いはなく、いずれ静かに消えていくだけなのかもしれない。

 社員寮の最寄り駅に着いたとき、駅のホームの時計の針は丁度十時半を指していた。その駅で降りたのは僕一人で、電車が走り去ったあとは、ひぐらしの鳴き声しか聞こえなかった。この街を出たときに感じた、うんざりするような暑さが弱まり、空気の中に、少しだけ秋の到来を予感させるものを感じた。夏が終わるのだ。そしてまた今年も僕は秋と冬を一人で生きなければならない。

 無性にコーヒーが飲みたかった。

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