自分とは違う生き方について
僕が大学三年生のとき建築学科の建物から女の子が飛び降りた。彼女が飛び降りた建物は、戦後すぐの時期に建てられたもので、現代の諸々の法律に照らし合わせれば、高さや工法、周辺住民の日照権に与える影響は不法なものであった。けれども今更取り壊せとも言えないのでお目こぼしを受けているというものだった。さらに言うのならこれまで何度が飛び降り自殺が発生しているという点でいわくつきのものである。
飛び降り自殺をする人はだいたい屋上か、最上階にあるトイレの窓から飛び降りるらしい。もちろん大学側も黙って飛び降りるままにしていたわけではなかった。屋上への扉は施錠したうえでさらにチェーンを巻きつけドアノブを固定し、高層階の窓には何重にも目張りをして、物理的に遮断しようと試みた。それでも飛び降りはやまず、僕が大学にいた六年間で都合二度の飛び降りがあった。窓の目張りをバールでこじ開けてから蹴り破ったり、扉のチェーンをごついワイヤーカッターで切ったりして、飛び降りを決行するらしい。その話を聞いたとき、これから死のうとしている人間が、元気よく分厚い目張りをけり込んでいる様子や、重いワイヤーカッターでドアノブに巻かれたチェーンを必死になってカットしている様子を想像して、僕は少し奇妙な気持ちになった。どちらも根気と体力がいる大変な作業だ。
「それだけ元気があるならば、死ぬ必要はないだろう。」
僕と一緒にその話を聞いていた江口も同じ感想を持ったようだった。いずれにしろ本気になって何かをしようとしている人間を止めることは本当に難しい。それが良いことであれ、悪いことであれ。
話を戻す。死んだ女の子はドイツ語の授業で僕の隣の席に座っている子だった。僕と彼女はとても仲が良いと言うわけではないにしろ、外で会えば少し話をするし、たまに授業の後に、学生食堂で食事をとったりすることもあるくらいの、赤の他人と友達の間くらいの仲だった。一度だけ小説を借りたこともある。
彼女が飛び降りた日は、とてもきれいな秋晴れの日で、柔らかな秋の日差しが理工学部の中庭に降り注いでいた。十二月直前にしては気温が高く、学生たちは通学時に着ていたコートを小脇に抱えてキャンパスの中を闊歩していた。丁度その日の三限はドイツ語の授業で、僕は授業の終わった後で彼女と少し話をした。後から思い出そうとしても全く思い出すことができないくらい他愛のない話だ。中途半端な知り合いが、中途半端に社交辞令でする程度の話。そして少なくとも僕には、彼女は平素と変わらないように思えた。そしてその一時間後、つまりは午後三時半頃、彼女は、建築学科のビルから飛び降りて、帰らぬ人となった。彼女がどこから飛び降りたのかはわかっていない。各階の窓の目張りはそのままだし、屋上の施錠も厳重にかけられたままだった。
僕が彼女の訃報を聞いたのは、同じ授業をとっている別の女の子からだ。その女の子は、亡くなった子と普段ほとんど会話なんてしていなかったけれど、まるで十年来の友人を失ったかのように悲しんでいた。そして僕はその子の態度に少しだけ苛立ちを覚えた。
死んだ女の子が貸してくれた小説はそのまま僕の実家の本棚に置かれている。返しに行きたかったが残念ながら僕は彼女の住所を知らなかった。かといって捨ててしまうのも憚られる。彼女の本の背表紙を見るたびに、一体何が彼女を殺したのだろうかと考える。本人がいないので、確認することはできない。
僕は生まれてこれまで、死にたいなんて思ったことはない。僕の人生は僕のものであり、他人に重篤な迷惑さえかけなければどう生きようが勝手だとだと思うようにしている。誰に何を言われようとも基本的には聞き流すことにしているし、本当につらいことがあれば無理せずギブアップする。だから死にたいと思うことは、今のところも一度もない。薄情かもしれないけれど今の僕には、例え彼女の口から本当の理由を聞くことができたとしても、理解してあげることはできないだろう。しかしながら聞いてあげるくらいはできたと思う。誰かに吐き出すだけで少し楽になるというのは理解ができる。僕の時間が多少損なわれる程度で、身近な誰かが楽になるのであれば、僕はいくらでも相手をしてあげたいと思う。
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