少し変わった日曜日
中学校の頃僕は男子校に通い、水泳部に所属していた。水泳部と言っても屋内プールがなかったので、水泳の練習は夏だけで、秋から春は陸上部と一緒に走ってばかりいた。一年生の夏はもっぱら雑用係として酷使されろくに泳ぐことができず、二年生のときは膝にけがをしてプールに入れなかった。三年のときは同級生がタバコを吸っていたことが問題となって、丁度七月から八月にかけて部活動は中止となった。水泳部だったのにまともに泳いだ記憶がほとんどない。水泳は全く上達しなかったけれど、千五百メートル走では、都大会で三位になった。
僕の人生というのはえてしてこういうものである。望んだものは手に入らないが、それ以外のもの案外すんなり手に入ったりする。もちろんそれほど多くのものを手にしたわけではないけれど、今そこまで苦労をせずに食うことができていることを思えば、十分なものを手にすることができたと思っている。
とにかく僕は一つの教訓を得た。初めから期待をしなければ、それほど落胆することはない。落胆とは期待と現実の落差である。
「人生に目標を持つのは意味がないと言うことでしょうか?」
僕がそんな話をするとマスターの親戚の女の子は、詐欺師を見るような、疑わし気な視線を僕に向けた。
青山にあるオープンテラスの喫茶店で、僕らは向かい合って座っていた。僕は分厚いホットケーキにはちみつと生クリームがのったものを頼み、彼女は同じものの半分のサイズを頼んだ。それはすこし年の離れた男女のデートともとることはできるし、単に就職相談をしている大学OBと後輩ととることもできる。
「違うよ。目標を持つことは構わない。でもしくじったからって、落胆する必要はないってことさ。うまく行くことのほうが少ない。そうじゃない人も稀にはいるだろうけど。」
「平凡に生きるのが幸せってこと?」
「普通に生きるというのはとても難しい。頑張って職に就き、結婚して、子供を作り、家族を養うために必死で働いて、子供の手がかからなくなったら少し余裕ができる。でもその頃には体力がおちて体の自由がきかなくなる。そんな風に大体の人はいろいろなことをやり残したままいつか死ぬ。」
僕は一旦、そこで言葉を区切って、彼女の様子を伺った。なんとか彼女はそういう人生を想像しているようだった。
「それが平凡な人生さ。平凡なはずなのにとても難易度が高い。そういうことってやりたくても僕にはできない。彼らと同じスタートラインに立つためには、そもそも僕には相手がいないからね。まずパートナーを見つけることの難易度が高い。」
「きっと、あなたは本当にそういう生活を求めてはいないのではないかしら。大変かもしれないけど、やってやれないことではないと思うわ。だって普通に働いているじゃない。しかるべき場所にいけばきっとパートナーは見つかると思うわ。」
彼女はそういって、僕の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「そんなことはない。僕はいつも女の子とゴミの分別で揉めるんだ。だいたいの子は汚れたプラスチックを可燃ごみに入れる。でも僕は洗って不燃ごみで捨てたい。」
「冗談のつもり?全く面白くないけど。それに私は真剣に話しているのだけど。」
「真剣だよ。僕なりに。でもそれが伝わらないことがある。」
「あなたに友達が少ない理由がわかるわ。」
「僕もわかっている。でも三十年やってきたことを今さら変えられない。」
「そういう生き方って損だと思うわ。」
「何事にも良し悪しがある。それに遠くから見れば、誰の人生も似たようなものだし、近くで見ればいくらでも粗さがしができる。完璧なやつなんていないということだけは完璧に言い切れるね。」
「詭弁だわ。」
「つまりね、スタンスの問題なんだ。自分のことばかり考えていると自分が世界一不幸に感じてくる。でも一歩下がって他人の人生を見てみると、本当にまっとうに生きているやつなんてめったにいないさ。もっと悲惨な生き方や、不愉快な生き方が無数にある。だから自分の人生が暗くとも、落胆する必要はない。」
「どうかしら。そう言い聞かせて自分を納得させようとしていない?」
僕は肯定も反論もせずただ肩を竦めた。
「今度はいつ戻ってくるんですか?」
しばらくの沈黙の後で、彼女は唐突に話題を変えた。
「年末かな。」
「またおじさんのお店には顔を出してくださいね。」
「もちろん。でも君はきっと忙しいんじゃないかな。就職するなら、就活中だし、院に行くなら研究に本格的に打ち込むころだ。」
「でも食事に行くくらいはできるでしょう。」
「いつでもいいよ。」
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