二度目の土曜日 夏らしさの喪失について
その日僕と江口は、都内にある市民プールに出かけた。プールは夏休みのせいか、飽きれるほどに混んでいた。あまりの混雑に、五メートルも泳ぐと誰かにぶつかってしまう。僕らは泳ぐことを諦め、プールサイドで寝転がって、自販機で買ったミネラルウォーターを飲んだ。
「なあ。正しさってなんだと思う?強さでもいい。」
「弁護士に聞いてくれ。」
「ただの雑談だよ。雑談。何でもいいから言ってみろ。」
「そうだな。」
僕は少し考えて口を開いた。
「会社の先輩が、俺が会社に入って三年目くらいのときに同業の別の会社に転職したんだ。でもうまくいかなかった。同じ会社にいたときは、優秀だったけどね。」
「もっとレベルの高い会社に行ったっていうことかな。」
「そういうわけではないみたいだったな。」
「じゃあ、なぜうまくいかないんだ。」
「一つの会社はね、一つ一つが違うルールを持った別の戦場なんだよ。例え同じような仕事をしていてもね。いい悪いではなくてそれぞれ違う強さが求められる。ある場所での強さが他の場所でも必ず通用するわけじゃない。」
「何がいいたい?」
「正しさや強さなんていうものに普遍性はないってことさ。生き方や生きる場所の数だけ、やり方やルールがある。」
彼は黙っていた。何かいいかけてまたすぐに口を閉じた。そのうち夕立になったので、僕らはなんとなくもやもやしたまま、プールを後にした。
着替えをしている間に雨はやんでいた。空気が洗われ澄んでいるような気がした。僕らはコンビニエンスストアでアイスクリームを買い、最寄り駅に向かって歩きながら食べた。湿気を含んだじっとりと重い大気は中学生の頃に感じた夏の匂いに似ている。
「なあ、俺たちって村上春樹の小説みたいじゃないか。」
「どういうところが?」
「おれは適度にろくでなしだし、お前も適度にかわりものさ。」
「適度。」
「つまりにね変わりものだし、ろくでなしだけれども二人ともあまり人に迷惑をかけていない。」
「そう言い切れるかな。自分の認識ほど信用できないものはないからね。」
彼は黙ってアイスをほおばった。僕もそれにならった。アイスクリームは夏の大気でみるみる溶けて、固さを失っていた。
「昔、部活動の帰りによくこうやって、帰ったよ。あの頃はよかった。余計なことを考えずに済んだからね。女の子とサッカーのことだけ考えていればよかった。」
アイスを食べ終わったところで江口は言った。
「そうかもしれない。」
自分の中で、夏が夏らしさを失ったのはどれくらい前だろうか。大学を卒業して、働き出した年かもしれないし、あるいはもっと前かもしれない。とにかく今の僕にとって夏はただ熱いだけの季節であり、特別なイベントも、素敵な出会いもない。しかしかつてまだ僕が少年だった頃は、夏は輝かしく特別な季節だった。夕立後の街をアイスをかじりながら歩いていると、その頃の夏が戻ってくるような気がする。
「もう十年以上前の話だと思うと、変な気持ちになるね。この十年間俺は何をしていたんだろうねってね。」
「皆同じさ、たいして違いはない。」
「なあ、三十ともなれば結婚して子供もいるし、勤めていれば大きな仕事も任されるようになる年頃だろ。」
「俺は結婚していないし、たいした仕事もしちゃいない。」
「俺よりはましさ。」
「食えているならいいだろう。」
「いろんなことに手をだして、それなりに努力したが何一つ身に付かなかった。」
「サラリーマンだって同じさ。とにかくいろんなことをやらされる。けれども胸を張ってできると言えることなんてひとつもないし、だれでもできる仕事ばかりさ。それでもそういうくだらないことで消耗して、家に帰って寝るだけさ。そんなことを毎日繰り返している。」
「誰だって誰かしらの役になっているさ。家族とか、同僚とかね。でも俺はね、本当に何もない。ただいろいろなものを消費するだけだ。」
「なあ、そもそも何がしたいんだ。今更ミュージシャンにでもなりたいのかい。」
「世界のどこかに自分がぴったり収まる場所があるんじゃないかと思うことがあるんだ。パズルのピースみたいにね。自分の居場所や役割が明確で、誰に対しても誠実になれて、誇りが持って生きられるような場所だよ。」
「そんなものがあるかね。」
僕は否定も肯定もせず中間的な態度をとった。
僕らは再び黙って歩きだした。油蝉の鳴き声はいつのまにかひぐらしに変わっている。西日が作る僕らの不自然なほどに長い影は、どことなく昔見たホラー映画の怪物じみていて、アスファルトの上でぼくらの後ろを黙ってついてくる。雨のせいで気温が下がり、やや肌寒い。夏が終わり、秋が近づいている。
「夏になると毎年、気持ちが高揚するんだ。今年も夏が来たってね。何かが変わるような気がするんだよ。でも何もない。そのうち秋がやってくる。秋が近づくと少し寂しくなって、冬になるともうどうしようもない。」
駅に着いたとき、江口は言った。
「きっと女の子の露出が減るせいさ。一冬楽しく過ごしたければ、誰かとデートでもすればいい。古い映画でそう言っていたよ。」
僕は答えた。江口は少し笑った。
「いつ帰るんだい。」
江口が言った。
「あと、2,3日はこっちにいる。」
僕は言った。
「その後はいつ戻るんだ?」
「年末かな。」
「寂しくなる。」
「たったの数か月さ。」
帰りの電車はお互い反対方向だった。江口は上り、僕は下り。
江口はそこそこ金のある家の長男だった。父親は都内で手広く商売をやっており、専業主婦の母親と医者の弟、学者の妹がいるらしい。父親の商売と言うのは何かと聞いたことはあるが、彼は黙って肩を竦めた。知らないのか、言いたくないのかわからないけれど、とにかくその件に関しては、それ以来一度も僕らの話題に上ったことはない。
僕が東京の理系大学でレポートを毎日書いていた頃、彼は同じ大学の文学部で哲学を学んでいた。学費を全額親がだし、車も買い与えられた。大学を二回留年し、僕が大学院を卒業するときに中退している。以来彼は両親の持ち物であるいくつかの不動産の一つに住み、そういった不動産の管理人という立ち位置で、特に何をするでもなくぶらぶらと日々を過ごしている。彼がどれだけ親の脛をかじろうともそれは結局、彼と、彼の両親の問題である。僕は羨ましいと思うことはあっても、彼の境遇について特に意見はなかった。しかし当の本人である彼はいつもそういう自分の立場に負い目を感じているようだった。
女の子にはもてる。彼からアプローチをかけることはないけれど、ガールフレンドを欠かしたことはなかった。僕は羨ましかったけれども、本人はそれほど楽しそうではなく、女の子といるときいつもつまらなさそうな顔をしていた。
とにかくいろいろなことをやっていた。あるときは楽器をやり、あるときはキックボクシング、あるときは美大の絵画講座に通っていたこともある。器用で要領がいいものだから、普通の人が10の労力で身に着けることを、彼はその半分くらいの労力で身に着けることができた。けれどもとても飽きやすく、長く続けるということがなかったので、どれもこれもが中途半端のままで、彼自身が言う通り本当に身になったものは何一つなかった。
10年を越える付き合いであはあるけれど、僕は彼という人間が一体何を求めているのかさっぱりわからない。始終自虐的な悪態をついてはいるれけれど、彼は本当に大事な話や個人的な困りごとを誰かに話すことない。友人や家族、勿論僕にも協力を求めるどころか一言も漏らしはしない。自分で何とかしようとして、そしてだいたいうまくいかず、いつも落ち込んでいた。
友達とは何だろうか、あるいは友情とは何だろう。30年生きてきても僕にはさっぱわりわからない。何でも隠さず話し合えることだろうか。何かあったときに駆けつけることできることだろうか。もしそれが定義なら僕は誰とも友達ではない。
けれども僕は江口と友達だと思う。もし彼が望むのなら話もきくし、ピンチに駆けつける努力はするだろうとは思う。結局のところ彼はそれを望まなかった。彼の困りごとを僕が無理やり聞き出そうとしていたら、きっと僕は彼と一緒にコーヒーを飲むことはなかったと思う。
結局のところ僕らは似た者同士なのだ。30年も生きていて自分というものがよくわからず、自分が何をしたいのかわかっていない。僕はわからないなりに妥協し楽な道を選び、彼はいまだ模索し続けている。
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