再び金曜日 珍しく電話で話をする

 自分の電話が鳴っていることに三十秒ほど気が付かなかった。正確には電話が鳴っていることには気が付いていたけれど、それが何を意味するかがわからなかった。インターネットの閲覧ばかりで、普段電話を電話として使うことが滅多にないからだ。通話ボタンを押し、もしもしと言った。なんだかそれは自分の声に聞こえなかった。電話に出るという行為になれていないのだ。

「久しぶりね。」

 相手はCDを貸してくれた同じ研究室の女の子だった。彼女から借りたCDを本棚に見つけたとき、一応は返す努力をしなければと思い、僕は電話をしたのだ。

「久しぶり。」

「一昨日、電話くれたでしょう。何かと思っちゃった。」

 僕は改めて簡潔に要件を伝えた。

「いいわよ。そのCDあげる。いらないなら売ってしまってもかまわないわ。」

「そういう訳にもいかないだろう。住所を教えてくれれば送るよ。」

 彼女は北海道の街の住所を僕に伝えた。

「ねえ、今少し時間ある?」

「あるよ。今夏休みなんだ。」

「少し話さない?十五分だけ。」

「何分でもいいよ。」

 僕はそういったあと、彼女が話し出すのを待った。ずいぶんと長い時間、沈黙が続いた。もしかしたら彼女は僕が話出すのを待っているのかもしれない。電話というものは沈黙の時間が必要以上に長く感じる。コーヒーカップに口をつけるとか、ストローの紙袋をいじるといったような時間稼ぎができないからだ。

「今なにしてるの?」

 彼女が口を開いた。

「働いている。」

「どんなところで、どんな仕事をしているの?」

「田舎の工場に併設された研究所で、研究員をやっている。冬にはどっさり雪が積もって、春にはたまに熊がうろうろしている。夏には掌くらいあるムカデが家に入ってくる。秋にも何もないかな。」

「それ以外は?」

「本当に働いているだけさ。僕の職場の周りは娯楽が少ないからね。たまに水泳をやる。大きな屋内プールが近所にあるんだ。」

「結婚は?」

「していない。家でアダルトビデオを見るのが数少ない日課かな。」

 僕がそういうと彼女は電話越しに少し笑った。

「君は?」

「結婚したわ。でもすぐに離婚した。」

「子供は?」

「男の子が一人。」

「子供がいるってどんな感じかな。」

「悪くないわね。」

 彼女は言った。それは僕とのセックスについて語ったのと全く同じイントネーションで、少し変な気がした。

「なんとなくしっくりきたのよ。」

「どういう意味かな。」

「今の生活が自分にはすごくあっているの。」

「ふむ。」

「父親はいないけど、働いて、子供の面倒見て、寝る前に本を読んで聞かせるの。かなり大変だけど、そういうのが自分としては、すごくしっくりくるのよ。私には今の生き方がすごくあっているって感じるの。」

「気を悪くしないでほしいのだけど、なんか大学院のときとは想像できないね。」

「自分もそう思うわ。バリバリ働いて、最悪一人で生きられるようにしようとか思っていたもの。でもまあ、悪くないわ。」

「何にせよ、充実しているのなら良かった。僕は毎日つまらなくてね。」

「あなたはなにかそういうのってないの?生きがいみたいなもの。」

「ないな。」

「いつか夢中になるものが見つかるわよ。趣味かもしれないし、女の子かもしれない。あるいは仕事かもしれないわ。仕事は好き?」

「いや、でも言いたいことはわかる気がするよ。」

 僕は久しぶりにあった友人がそうするように簡単に近況を伝えあったあと、友好的に別れを告げて電話を切った。少なくとも僕はそう思った。


 客観的なステータスを見れば、僕はじつに真っ当な人間に見える。

 心躍る仕事かどうかはともかく、同い年の人々の平均程度には稼いでいる。毎日風呂に入り、毎朝顔を洗って髭は剃り、二か月に一度は床屋に行く。毎食後歯を磨き、三か月に一回歯医者の定期健診に行き虫歯一つない。週に三日水泳をやり、酒も煙草も暴食もせず、健康診断で一度も悪い数字がでたことがない。ついでにいうのならギャンブルもやらないし、かっとなって衝動的に人を怒鳴ったりもしない。目立った欠点はない。けれどもきっと真っ当な人間ではないのだと思う。

 今の会社に入社したばかりの頃、会社の同期が女の子を紹介してくれたことがある。僕は彼女と週末に会い食事をしたり、一緒に映画を見たりした。何も知らない人が見れば、僕らは年頃の男女が行う普通の交際をしていたように見えただろう。

 僕はそれまで、ごく真っ当なデートの経験がなかったので、初めのうちとても新鮮に感じていたけれど、二か月もすると彼女に会うのが億劫になっていた。

 僕は彼女のために次のデートコースを計画したり、どんな会話をすれば相手を楽しませられるか事前に真剣に考えたり、デートの最中には彼女が疲れたり退屈したりしないよう気を配ったりした。彼女も同様に気を遣ってくれた。そして、そんな風にお互いに気を遣うことがひどく息苦しかった。

 あるときから毎週末のデートが苦痛になった。そんな人間関係が当然うまくいくわけがなく、僕らの関係は半年ももたずに自然消滅した。何か確認の言葉や、手続きもなく本当に気が付いたときには僕らは会わなくなっていた。もちろん悪いのは百パーセント僕だ。

 彼女と会わなくなると、申し訳ないなと思いつつも、僕は心のそこからほっとしていた。そしてその頃から、このままずっと一人で生きていくということを現実の可能性として考えるようになり、結果的にはそれが現実のものとなりつつある。

 その子だからうまくいかなかったのか、あるいは別の女性だったらうまくいっていたのか、今となっては僕にはよくわからない。けれども別の誰かともう一度同じことをするというのはどうしようもなく面倒に思えた。

 結局のところ僕は、一人でいるほうが、誰かと一緒に何かをするよりむいているのだ。寂しさや人恋しさを感じないわけではない。けれどもそれ以上に、一人でいることの気楽さが勝った。もはや三歳の子供ではない。今更この性行を変えることは難しいだろう。ただ僕にできることは、まともな人に迷惑をかけないよう、どこか人目のつかない場所に引きこもるだけだ。



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