木曜日 久しぶりに女の子と食事をする

 白百合のアルバイトの女の子から電話があった。先日約束した進学に関する相談のことだ。木曜の夜に食事をしながら話をすることになった。

 彼女が白百合で働き始めてから僕らは何度か一緒に食事をしたことがある。初めて食事に行ったとき、彼女はまだ高校生で、僕は大学の二年か三年で、二人でファミリーレストランに入った。そのレストランはとっくに潰れ。僕は三十、彼女は女子大生だ。時が経つのはあまりにも早い。

 僕は女子大生と真面目な話をする場として、どのような場が適切かを考えた。結局何も思い浮かばず、インターネットで店を選んだ。レストラン評価サイトで駅名を入力し、「雰囲気がいい」「カジュアル」等の項目に印をつける。検索ボタンを押すと店がリストアップされた。いろいろな人がお店に評価とコメントをしている。世の中には律儀な人が多いのだなと思う。僕は点数が高い店を選び電話で予約をした。便利な時代だ。検索すればなんでもわかる。そのうち口説き方もネットが教えてくれるかもしれない。僕はもう少し遅く生まれるべきだった。

 一度白百合に顔を出し江口と他愛もない話をした。彼女が仕事を終え、店の奥に引っ込むのを見送り、店の外で彼女を待った。午後六時を過ぎていたがまだ明るい。強烈な西日が街を斜めに照らし、菱形にゆがんだ建物の影がアスファルトの地面を黒く切り取っていた。西の空は夜と昼の中間の紫色に染まり、その色はなぜか僕を不安な気持ちにさせた。

 僕はガードレールに腰を下ろし行きかう人々をぼんやり眺めた。駅に向かう学生、家路を急ぐスーツ姿の男。スーパーの袋を下げた女性。彼らは何か明確な目的地ぬ向かって歩いている。人々の群れの中で、僕だけがどこにも行く当てがない。


 店は、駅前を通る太い道路に面した大きなビルの地下にあった。同じ地下でも白百合と違い、スタイリッシュな地下室だ。僕らは壁際のテーブルに案内され、席に着くとすぐに飲み物のメニューを渡された。

「あいかわらずお酒、飲まないんですね。」

「飲めないことはないけど、苦手でね。」

「じゃあ、私も飲まないほうがいい?」

「気にしなくていい。」

「それじゃあ、お言葉に甘えて。」

 彼女は何か長い名前の付いたカクテルを頼んだ。僕の人生で一度も聞いたことがない名前だ。ほどなく飲み物がきて前菜が続いた。前菜は僕の想像より量が多く味も良い。前菜を食べ終わる頃にスープがきて、スープを飲みながらパンをかじっていると、パスタがやってきた。完璧なタイミングだ。急かすわけでも待たすわけでもない。ウエイターは客の様子をしっかり見ている。彼らに僕らはどのように映るのだろう。彼女は間違いなく女子大生で、僕はくたびれた冴えない男だ。

 僕は食事をしながら、僕の研究室ではという前置きをしたうえ、学費や研究、研究室の雑務など大学院の話をした。その後理系学生の就職活動について、僕の会社や知人を例に、知っている範囲の事実を語った。良い料理は人を饒舌にする。僕は久しぶりによく喋った。こんなに誰かと会話をしたのは、数年かぶりだ。


「就職して、人生変わりますか?」

 具体的な話が一通り終わり、僕らの前に肉料理がきたとき、彼女はとても真剣な表情で、抽象的な質問をした。僕は少し考えてから口を開いた。

「いろいろなものを会社に売り渡す。自分の時間と尊厳、技術。バイトは時間だけ売ればいい。腕に自信があれば、売るものは技術だけかもしれない。でも売り物がない凡人は時間と尊厳の両方を売る必要がある。」

「何が得られるんですか?」

「バイトよりは高い給料。税金や年金の面倒な手続きは会社がやってくれる。会社のいろんな福利厚生が使えるし、信用を得られる。ローンが通りやすくなる。」

「バイトとそんなに違いますか?」

「売り渡すものが多い分、得られるものも多い。」

「それほどの価値がありますか。」

「難しいね。給料はバイトよりは多いけど、ちょっとの贅沢が許されるくらいさ。普通に生きて、恋人とデートして、年に一度旅行すれば、貯金なんてできない。仕事はつまらないけど蓄えがないから辞めることもできない。」

「転職すればいいじゃない。」

「日本のサラリーマンは、ガラパゴス島の生物みたいなものさ。その会社で生きていくためのスキルしか身に付かず。他の会社では通用しない。それに長く働いていると皆、会社に情が湧くみたいだよ。」

「あなたはどうなの?」

「情なんてないけど、僕は凡庸な人間だから会社に従うしかない。でも早期退職のために金を貯めている。給与の六割は貯金や投資さ。」

「なぜ皆そうしないの?」

「普通の人は結婚するし、人付き合いもある。たまの娯楽もする。僕は独身だし休日は一人で過ごすし、金のかかる娯楽に興味ない。学生の頃と変わらない生活をしている。」

「楽しいですか、そんな生き方。」

「人それぞれさ。図書館で本を借り、週に三回プールに行って、たまにいい飯を食う。それでだいたい僕は満足さ。それにあと十五年あれば残りの人生一人で暮らしていける金が溜まる。尊厳と自由な時間を買い戻すんだ。」

「その後どうするんですか。」

「何も変わらないさ。好きな本を読んで、プールに行く。」


 食事は僕が払った。彼女も出すと言ったが、くだらない男のプライドのために僕が払った。食事は概ね楽しく、仕事の付き合いにに比べて何倍も価値があった。

 店を出るとお互いに言葉が見つからず、駅に向かって黙って歩いた。不快な沈黙ではない。ときおり彼女がふらつき肩が触れた。人の体温をこれほど近くに感じたのは久しぶりだった。

 彼女に視線を向けると、偶然に目が合った。彼女ははにかむように小さく笑った。わざとらしくない自然な表情で、僕は彼女に嫌われてはいないのだなと思った。誰かに嫌われないというのは悪くないことだ。

「まだ時間があるなら、喫茶店でも行かないかい。」

 彼女ともう少し話をしたかった。しかしもう一軒行くのも、何か下心があるように思われかねない。折衷案として僕は喫茶店を選んだ。酒抜きなら何も起きないし、すぐに終わる。高校生のデートみたいと思ったけれど、僕は高校生の頃デートをしたことがない。

 駅前のスターバックスで、僕はとても名前が長い飲み物を、彼女はココアを頼むみ席に着いた。

「嫌なことがあるとすぐ飲んでしまうんです。強くないからそんな飲めないけど。」

「嫌なこと?」

「いろいろです。」

「誰かに話したいなら話せばいい。僕は友達が少ないから誰にも話さないし、解決できなくても、話すだけで楽になることもある。王様の耳はロバの耳。」

「言いたいことはわかります。でも人に愚痴を言うのって好きじゃないです。」

「真面目だね。」

「よく言われます。でも私は皆が言うほど真面目ではないですよ。そういうこと言われるの少し心外です。」

「余計なお世話だけど、酒じゃ何も解決しない。逆に悪くなることのほうが多い。」

「それじゃあ、嫌なことがあったらどうしますか?」

「プールでへとへとになるまで泳ぐ。その後分厚いホットケーキを作って、ハーゲンダッツのバニラアイスをのせて食べる。苺のソースがあるともっといいね。」

 僕は親指と人差し指でホットケーキの厚さを示しながら言った。

「すごく太りそう。」

「そしたらまた泳ぐ。そのあとホットケーキを食べる。飽きたら大福でも、チョコパフェでも何でもいい。そのうち、何を考えていたか忘れちまう。」

 彼女は僕が指先で作った小さな空間を眺めていた。

「悪くないですね。」

「冴えない独身男性が一人ホットケーキをほおばる姿を想像してみて。」

「酔い潰れているよりはいいです。だれも迷惑しない。」

 そういって彼女はカップに口をつける。

「真面目にな話、そういう酒は、本当にやめたほうがいい。そういうのにつけこむ男は、君が想像しているより多い。若かろうが年寄りだろうがね。」

 そう言ったあと僕は少し後悔した。やや踏み込みすぎた忠告だろう。

「あなたも?」

「昨日寝不足でなかったらわからない。」

「わかりました。」

 彼女はそういってまた小さくと笑った。根は真面目なのだ。けれども彼女の真面目さが招いた義務やストレスが彼女の許容量を越えている、そんな印象を受けた。

「前、アドバイスしてもらったときね、すごく現実的だと思ったんです。」

 彼女は唐突に話題を変えた。

「現実的?」

「就職のため院に行けって話。研究の楽しさだとか、仕事のやりがいだとかそういうのを期待していたんです。よくある就職活動のホームページみたいに。」

「ごめん。」

「責めているんじゃないんです。なんというか、自分が少し子供だと思いました。もう現実的にいろいろなことを考えないと。就職だとか、家族のこととか、将来何がしたいかとかね。高校生の夢みたいな話じゃなくて、地に足をつけて考えなきゃって。それでいろいろ考えたんです。」

「結論は出た?」

「固いところ就職して、ギャンブルとか夜遊びしない男性と結婚して、子供を育てながら働く。そういう普通の生き方が自分には合っていると思います。」

 彼女の言い方にはどことなくとげがあるような気がした。

「嫌なのかな?」

「うまく言えないのですけど。もしかしたら違う生き方もあったのかなんて、思うんですよね。漠然と。良い悪いじゃなくて、いろいろやりたいことはあったけれど、そういう生き方をしてこなかった。そういうのってわかります?」

「もし自分がハンサムだったらって思うことはある。」

「どうしますか?」

「いろんな女の子とデートする。」

「私はそういう男は嫌いです。」

 僕は笑った。

「現実的に考えることは大事だけれども、まだ夢を見たっていいと思う。誰も文句は言わないさ。」

「夢はありますか?」

「不労所得だけで生きること。」

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