水曜日 対話の在り方について

 家族から宅配便の受け取りを頼まれ、僕は家にいた。暇なので弟の部屋のゲーム機を引っ張り出した。適当に選んだゲームはよくあるオンラインゲーム、つまりネットで仲間を募り、協力しながら遊ぶゲームだ。この手のゲームは友達と一緒にやったり、プレイするうちに知人を作っていくものだが、初プレイの僕にはそんな相手はいない。僕は自動的に仲間を探してくれる機能を選択し、ゲームに必要な人数が揃うのを待つ。やがて僕と同じように仲間を探している人々が集まってくる。誰かが参加するたび、

「よろしくお願いします」とか「こんにちは」

と言った言葉を誰かが打ち込み、それに誰かが応える。誰かが加わるたびに、それが繰り返されるので、文字が次から次へと画面上を流れていく。なぜかはわからないけれど僕はその様子を見て、少しずつ気持ちが沈んでいった。これはゲームだ。現実逃避の手段だ。しかしそのやりとりは後ろに潜みキャラクターを操る無数のプレイヤーを連想させ、嫌が応にも自分を現実にフィットさせられる。

 もちろんコミュニケーションは大事だ。人類は互いに協力し合い文明を築いてきたし、我々の生活は誰かと誰かの協力によって成り立っている。そしてコミュニケーションこそが協力を築く作業である。そのためにメールを出したり会議に参加したり、同僚に話しかけたりする。しかしなぜそれをゲームでまでやらねばならないのだろう。釈然せぬまま、必要な人数が揃ったのでゲームプレイを開始する。ゲーム中は誰かが誰かにお願いをしたり、お礼を言ったりしている。ステージをクリアすると、互いが互いに「お疲れさま」とか言い合っている。僕は無言でゲームの電源を切った。ゲームが悪いのではない。ただ僕には合わないのだ。

 僕にとってのゲームとはあの場末のゲームセンターのときから変わっていない。ゲームとは一人でもくもくとプレイするものだ。誰にも邪魔されず、一人でなりたいときにやるものなのだ。友達と集まったり、ネット上で誰かと一緒にプレイしたりは、僕という人間のゲームに対するスタンスと残念ながら相いれない。

 当然間違っているのは僕なのだろう。そういうゲームの売り上げは圧倒的だし、プライベートであっても社交的に振る舞うのが大人というものだ。それでも僕はあの高校生の頃に通ったゲームセンターがひどく懐かしく感じてしまう。誰もが一人だった。居合わせた相手は皆敵で、協力なんてしない、そんなゲームもなかった。筐体に座り、黙ってコインを投入し、黙って勝負を挑む。負けたら黙って去るか、もう一度コインをいれる。そこに会話はなく、皆が孤独だった。

 

 ゲームをやめたので僕は何か本でも読もうと、自分の本棚を物色した。本の並びは大学の頃からほとんど変わらない。数冊の技術書、藤沢周平の小説、村上春樹の初期作品、諸星大二郎と伊藤潤二のコミック、その他脈絡のない本が数冊。その片隅に見慣れぬ音楽CDを見つけた。学生の頃に知人に借りたまま返すこと忘れてしまったものだ。僕は本当にいろいろなことを忘れてしまう。

 それを僕に貸してくれたのは、同じ研究室所属の同級生の女の子だ。その子は生まれて初めて僕が寝た女の子でもある。僕がその女の子と寝たのは大学四年生の夏で、丁度期末試験が終わった頃だ。それは見方によっては遅いととることもできるし、別の見方からすれば早いととることもできる。例えば僕が共学高校のハンサムな男なら高校生のうちに、恋人を作りセックスするだろうし、中高を男子高ですごし、理工学部に通う顔も頭も冴えない男であるなら、下手をすれば死ぬまでセックスをしないという生き方だってある。人生というのはいつでも相対的なものだ。

 もちろん僕は後者に近いので、初めて彼女と抱き合ったとき、自分が女性と同じベッドに寝ているという事実に強い違和感があった。それが同じ研究室のたいして仲が良くない子というのがますますその違和感を増幅させた。

「悪くない。かなり才能がある。」

 大学近くの彼女のマンションのベッドの上で、つい先ほどまで実験器具を弄繰り回していた手で僕の体を触りながら、彼女は僕との行為を評してそう言った。それが嘘でないなら神様は実に意地悪なことをしたと思う。それは南国の人間に高級なコートをプレゼントするようなものだ。使う機会は極めて限られているし、一生使わないことだってありえたのだ。

 そのときから、僕らが大学院を卒業するまでの二年半、僕は彼女と数限りなく同衾した。僕に選択権はなくいつでも彼女の気分次第だった。三日間、一日中彼女の部屋にこもることもあれば、二か月間も全く会わないこともあった。彼女とのセックスは僕にある種の自然災害を想像させた。地震で家が倒壊しても、台風で屋根が吹き飛ばされても、誰にも責任を押し付けられないように、彼女がこうと決めると抗うすべも逃れるすべもない。行為の結果として残る諸々の感情は、いくあてを失い話す相手もいない。彼女と寝るたびに僕はそんなあてどない気持ちにとらわれた。僕は彼女のことが嫌いではなかったし、彼女も同様だと思う。けれども恋人というわけでもなく、一体僕らは何のためにこのような行為をしているのかわからなかった。

「あなたわりと最低な人間よね。」

 クリスマスを控えた十二月中旬のある日、彼女は唐突にそんなことを言った。渋谷にある小さなホテルのベッドの上でぼんやりと天井を眺めていたときだ。

「そんなことはない。暴力も振るわないし、浮気だってしない。」

 僕は江口のことを考えながら言った。その年彼は三人の女の子と付き合い、同級生を殴りもした。

「あなたは可能ならいろんな女の子と寝るし、必要があれば人を殴ると思う。」

「なぜわかる?」

「そんな気がするのよ。」

 彼女の言うことはもっともで、もし僕がもてる男であったなら、いろいろな女の子と寝たような気もする。僕が彼女以外と寝ないのは、彼女しか相手をしてくれないからだ。

「そんなことはしない。僕はできる限り誠実に生きたいと思っている。」

 僕はそう反論したが、自信はなかった。自分ほど信用できないものはない。

 僕が彼女と最後に会ったのは大学院を卒業する直前の、二月頭だった。修士論文の提出が終わり、僕が自分の私物を引き取りに研究室に顔を出すと、丁度実験設備をいじっている彼女と鉢合わせをした。僕らはそのままなんとなく、近くにあるチェーンの喫茶店でコーヒーを飲み、他愛のない会話をして、彼女のマンションに行き、どちらから誘うでもなく抱き合った。それは愛情を確認するだとか、快楽を追求するだというようなものではなく、ある種の儀式のような趣だった。まるで魚の交尾のような、義務的でドラマ性のないもの。そしてきっとこれが最後になるのではないかという予感があった。僕は少しだけ、いつもより丁寧に彼女を愛撫した。

次の日の朝、僕らは前日と同じチェーン店に入って、僕はオレンジジュースとサンドイッチを、彼女は紅茶を頼んだ。まだ朝早く、店内には僕らと店員しかいない。

「十年後何していると思う?」

 カップをスプーンでかき混ぜながら彼女は言った。

「想像できないね。」

「想像して。」

「十年前といったら、僕が中学生の頃だよ。十年前の自分が、今の自分の生き方を想像できたかな。」

「いいから、何か話して。」

 彼女は聞き分けのない飼い犬に芸を催促するようなに少しだけ苛立たしげに、それでいて少し優しい口調で僕に答えを促した。

「結婚して、郊外の庭付き一戸建てに住んでいる。八王子あたりかな。子供は二人で大型犬を飼い、往復三時間かけて通勤して、週末は家族で遠足に行く。」

「本当にそう思っている?」

「いや。一人暮らしのマンションで、アダルトビデオを見ている気がする。」

 僕がそう言うと、彼女ほんの二秒くらい声を上げて笑った後で、笑っているとも、怒っているともとれる奇妙な中間的な表情をした。

「中学生くらいの頃ね、作家になりたいと思っていたの。家に本がいっぱいあって、一日中読んでたわ。ディズニーとか、ネバーエンディングストーリーとかそういうのよ。将来は私みたいな子が見る本を一杯描いて、子供に夢を与える仕事をしたいと思っていたの。」

「今からでも作家になればいい。」

「やりたいことと、できることって違うのよ。十年やってもなれないわ。それくらいわかる。」

「そうかね。」

「きっとここのまま、自分でも何をしたいのかよくわからないまま人生を無駄にして、年をとるの。別にそれが悪いわけではないけれど。」

 彼女の人生が、彼女が言うほどに無駄かどうかはわからない。少なくとも僕よりずっと成績は良いし、就職先だって研究室の同期の中で一番良かった。彼女の人生が無駄ならば、僕の人生は一体何なのだろうか。しかし結局のところ、彼女の人生をどう扱い、どの思うかは彼女自身の問題であり、僕にはどうすることもできない。

「才能がある人しか何かをやる権利がないなら、世の中ほとんどの人は何もできないよ。つきなみな意見だけれども楽しんだもの勝ちさ。それにスポーツ選手じゃないんだから、仕事しながらでもできるし、長く続けていればいつか誰かの目にとまるさ。」

「本当にそう思う?」

「誰にも迷惑かけないなら、何をするのだって君の自由さ。」


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