日曜日 誕生日の過ごし方

 電車からホームに降り立った途端、僕は少しうんざりした気分になった。エアコンがよく効いて少し肌寒いくらいの車内に比べ、屋外の空気は当然のことながら真夏のそれだった。今朝テレビで見た気象予報士が、関東ではところによっては四十度を超える地域もあるでしょうと、どこか誇らしげに宣言していたことを思い出す。彼に罪はないが、僕は彼が心底恨めしくなった。電車を降りて五分もしないうちに、じっとりと滲んだ汗が自分の肌の上をさらさらと流れていることが、目を向けなくとも感触としてわかった。

 まるで夏の匂いが漂ってくるようだ。目がちかちかするほど強力な太陽の光とじっとりと肌にまとわりつく熱く湿気を帯びた大気、焼けたアスファルトからの熱。空気が揺らぎ、景色がどことなく歪んで見える。強力な光で目を開けるのが億劫になる。暑さで頭がくらくらし、自分が空気の中に溶け出すような奇妙な感覚に襲われる。そこかしこから聞こえてくる蝉たちの鳴き声がさらに現実感を遠のかせる。彼らが留まれそうな木など見渡す限り見えないのに、どこで鳴いているのだろう。極端な事象はどことなく現実の輪郭を狂わせる。

 顔を上げると、水色の絵の具を薄めずに塗りたくったような、くっきりとした空が見える。その空を背景に、真っ白で巨大な入道雲が浮かぶさまは、ドラマや映画のポスターにでも使えばとても映える景色だった。雲は映画「ゴーストバスターズ」で見たマシュマロマンのような造形をしており、どことなく懐かしい気持ちになる。そういえば映画なんて何年も見ていない。久々に何か見に行ってもいいかもしれない。

 僕は道路の右側を選んで歩いた。そちらに建物の影ができていたからだ。建物が途切れ、影も途切れる場所を通るときは、日陰との温度差にうんざりする。こんなにも夏は暑かっただろうか。それとも僕が弱くなっているのだろうか。僕がまだ小学校や中学校の頃は確かにこの炎天下の中、友達と遊び、部活動に励んでいたはずだった。いずれにしろ僕が小学生だったのはもう二十年近く前である。確実に体力も衰えているし、温暖化も進んでいるはずだった。二十年、あまりにも昔のことのような気がする。

 道ゆく人も皆気だるげで心底うらめしそうしている。暑さという誰のせいにすることもできないものへの怒りや恨みを抱えながら歩いていく。夏休みになった学生街は多少閑散としているが、それでも思ったよりは人通りがある。そんな中に何やらはしゃぎながら歩いていく若者の一団がちらほらと見受けられる。おそらくはサークル活動か何かに向かう学生だろう。

 そういえば僕は大学生の頃、どのように夏休みを過ごしていただろう。全く思い出せなかった。よく考えてみると、僕には夏休みの思い出というものがほとんどない。就職してからはもちろんのこと、大学や大学院での思い出もない。友達は少なく、もちろん恋人はいない。特にサークル等に所属していたわけでもない。熱心に打ち込んでいたものは何一つない。当たり前と言えば、当たり前かもしれない。彼らは違うのだろうか。僕は道行く学生たちを横目に眺めながら、夏休みの意義というものについて考えた。

 白百合のあるビルに到着すると、僕は逃げ込むようして階段を下りた。エアコンがよく効いていて、すぐに汗が引いていく。相変わらず店はガラガラだ。白百合は大学の近くにあるのに大学生はほとんど入らない。大学生はスターバックスとか、エクセルシオールとかに入る。別にどちらも悪いとは思わないけれど、白百合とどれほど違いがあるのかわからなかった。わからないのはきっと、僕がもはや大学生ではないからかもしれない。

「誕生日おめでとう。」

 いつものようにブレンドとサンドイッチを頼むと、マスターが言った。僕はそう言われるまで、今日が自分の誕生日であることを忘れるところだった。きっと両親だって忘れている。加えて言うのなら誰かに暖かい言葉をかけられるのは実に久しぶりのことだった。具体的には三年ぶりくらいだ。

「ありがとうございます。」

「いくつだっけ。」

「三十です。」

「俺が結婚した齢だ。」

「何年前?」

「忘れちまった。大分昔さ。結婚しないのかい?」

「予定すらないですね。まず相手がいない。」

「そのうち、相手も見つかるさ。」

「だといいですけど。奥さんは元気?」

「別れたよ。大分前のことだ。」

「結婚してよかったと思いますか?」

「いろんな発見はあったし、たいていのことならば許せるようになったよ。」

「なぜ離婚したんですか?忍耐強くなったんでしょう?」

「相手は俺ほど忍耐強くはなかったんだ。」

「うまくいかないものだね。」

「うまくいくことのほうが少ない。」

 僕は次にかけるべき言葉が見つからず、困ってしまった。マスターは特に気にした様子もなく店の奥に引っ込んでいった。考えてみれば同い年の多くの人間は僕くらいの年になると結婚しているし、幼稚園に通うくらいの子供がいることも珍しくない。以前どこかで見た政府発表の統計的な数字もそれを裏付けていた。

 サンドイッチはいつもより、少し多めだった。サービスなのだろう。

 しばらくすると江口がやってきた。

「誕生日おめでとう。」

 そういって江口は、小さな厚紙の手提げをテーブルに置いた。紙袋はどこかの百貨店か何かの買い物袋に見えた。中には標準的なテッシュ箱より、一回りほど小さな、平べったい白い箱が入っている。

「ありがとう。でもなぜだ?高校以来初めてだぜ。何かくれるなんて。」

 箱には黒い文字でどこかの店名らしい文字が書かれている。達筆すぎて僕には読めなかった。

「たまたまそういう気分だったんだ。」

「お前の誕生日には何か奢るよ」

「期待しているよ。男にプレゼントというのがよくわらかなくてね。食い物にしたんだ。食べちまえばなくなるしね。でもケーキっていうのも面白くないから、和菓子を買ったんだ。」

「ありがとう。祝ってくれるのはマスターとお前だけさ。」

「俺も同じさ。」

「ガールフレンドに祝ってもらえばいい。」

「わざわざ知らせないよ。俺の誕生日より大事なことなんていくらでもあるからね。」

その後、僕らは二時間ばかり白百合で時間を潰した。その間に僕は三杯コーヒーを飲み、都合五回トイレに立った。江口はチョコパフェの後、ピザトーストを頼み、ソーダフロートでそれを胃に流し込んだ。話すこともやることもなくなると店を出て別れた。僕らがいた間、店を訪れる客は、片手で数えられるほどしかおらず、マスターはたまに時間つぶしに我々の席にやってきて他愛のない雑談に興じた。

 僕は帰りに近所のレンタルショップに寄って、ゴーストバスターズのDVDを借りた。二十年前にはまだビデオだったはずなのに、今やDVDすら時代遅れになりつつある。僕が初めてこの映画を見たときからもう二十年以上経っているのだ。

家に帰りDVDを見ようとしたが、プレイヤーにディスクを投入しようとしたところで、急に面倒になってやめてしまった。少なくとも、これから二時間はテレビの前にいなければならないということがひどく億劫に感じられた。肉体ばかりでなく、最近は心の体力も落ちている。

 手持無沙汰になり、僕は携帯電話でネットのニュースを眺めていた。誰かが交通事故で亡くなった。名前も聞いたこともない国の戦争。スポーツニュース。モデルの誰それが誰かと結婚した。無駄な情報ばかりだ。ネットにはこの手の情報サイトが掃いて捨てるほどあり、毎日うんざりするほど大量のニュースを発信している。きっと本当に価値のある情報はゴミの山にうもれ、見えなくなってしまうのだろう。そう思いながらも、僕は時間を潰すためだけにその文字列を眺めていた。タイムイズマネー。

 時計を見るといつのまにか一時間以上経っている。こんなくだらないことしているくらいなら映画をみていたほうがいくらかましだったような気がする。このような過ごし方が三十の誕生日の過ごし方として、適切かどうかはわからない。とりあえず祝いの言葉をかけてくれる人がいただけ、ましなのだろう。

 僕の予定では三十歳になるのはもう少し遠い未来だと思っていたが、思いのほかそれは早くやってきたように思う。三十になるまで僕は多くの経験を経て人間的に大きく成長し、大人の魅力溢れる三十歳男性になる予定ではあったが、精神的には十七のころと何も変わらぬまま三十になった。むしろ体力が落ちたことを加味すれば生物として劣化していると言っても間違いではない。誕生日は本当にめでたいことなのだろうか。僕は天井にこびりついた人の掌ほどの黒い汚れを睨みながら、そんなことを考えた。その汚れは五年ほど前に亡くなった祖母が付けたものだった。だいぶ痴呆が進行していた彼女が何か拍子に激高し、流動食を天井にぶちまけたのだ。優しく明るく聡明で家族の中心であった祖母が、最後は肉親の顔も判別つかなくなるほどに痴呆が進み、同時に感情をコントロールできなくなり、モノや家族に手当たり次第怒りをぶつけるようになった。あのとき僕は人の変わったような祖母を見て、老いというものについて本当に切ない気持ちになり、また老いは誰にでもやってくるという事実が恐ろしくてたまらなかった。それはまだ遠い未来かもしれないけれど、いずれ必ず自分にもやってくるものなのだ。

 そんなことを思い出すと誕生日なんてちっともめでたくない気がする。見ようによっては若さを失い死に近づいたととることができるのだ。


「きっと祝いたいのは誕生日を迎えた本人ではなくて、まわりの人なのよ。皆で集まって騒ぐ口実が欲しいのよ。」

 友達に紹介され一度だけ食事した女の子は誕生日についてこう語っていた。

「君も騒ぎたいの?」

「まあ、そういう部分もあるわね。だっていいじゃない誕生日の雰囲気って。」

僕には、集まって騒ぐ口実を探している人々がいるということがあまり理解できなかった。人混みは苦手だし、騒ぐことも性に合わない。そういうことの何が楽しいのかさっぱりわからない。そんな言葉がでかかったが、僕はすぐにその言葉を飲み込んで黙っていた。僕と意見が合う人間なんて滅多にいない。僕が正直にものいうほどに、いろいろな人々との距離が離れていく。ときおり、僕と同じ種類の人間に出会うこともあったけれど、本当に彼らはマイノリティであり、味方としてはいささか心もとなかった。もちろん相手も、僕を見てそう思っただろう。

 ある意味においてそれは、異なる宗教の争いのようなものなのかもしれない。僕は誕生日会の良さについて喜々として話す女の子を見てそう思った。いいか悪いかはともかくとして、僕らと僕ら以外の人種は決してお互い理解し合えないし、理解しようとも思わない。二つの種族はいずれ相対し問答無用の殺し合いとなって、いずれどちらかがこの世から消えていなくなってしまうのだろう。そしておそらく消えていなくなるのは僕のような人間なのだろう。

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