土曜日、友人と再会する
「なんで俺の人生は糞みたいなんだ?」
江口はグラスを置いて、少し早口で言った。それは目の前の僕に話しかけているにしては少し声が大きく、トイレに行くため通りがかった別の客が、少し怪訝な表情で僕らを睨んだ。そのセリフは高校生の頃からの、彼の口癖のようなものだ。彼の知古はみんな知っているし、別に誰かに答えを求めているわけでもなかった。
「もう三十になる。」
彼はその事実にたった今気が付いたような口ぶりで言った。
「けれども何一つ身になったことがない。」
彼はそう言ってからストローに口をつけ、音を立ててアイスコーヒーを飲んだ。
僕は黙って彼の次の言葉を待った。放っておけば何事もなかったように次の話題へと変わっていく。いつものことだ。僕はもう三百回くらい同じ台詞を同じ場所で、つまりは今僕らがいるこの店で聞いた気がする。
僕と江口が待ち合わせをするのは、大学生の頃からいつでもこの「白百合」だった。白百合はこれと言って特徴のない喫茶店で、駅から五分歩いた場所にある雑居ビルの地下にあった。その建物は僕らが通い始めた頃には既にぼろぼろで、一階は本屋、二階は何をしているかよくわからない小さな会社の事務所だった。その建物の正面から見て右手に、地下に通じる階段があり、そこを降りると目の前に古めかしいガラス戸がある。ガラス戸には金色で「白百合」という文字が、所々剥げてはいるけれどしっかりと刻まれている。それを見るたびに僕は、僕のいるべき場所に帰ってきたと感じる。僕が大学生活で、最も多くの時間を過ごした場所だ。きっと授業を受けていた時間よりも長い。僕ら以外の多くの学生が、友人と居酒屋で酔い潰れたり、洒落たバーに行って女の子を口説こうとしていた頃、僕らはわき目もふらずこの店に通い詰めた。喫茶店という選択は消去法の結果だった。江口が元々アルコールを受け付けない体質だし、僕もあまり酒が好きではなかった。酒を出す店以外で腰を落ち着け、くだらない会話に興じることができるのは喫茶店か大学の学生ラウンジしか僕らは知らなかった。学生ラウンジはいつも混んでいたので、僕らはしかたなく喫茶店を選んだ。けれどもなぜその店を選らんだかは、自分でもよくわからない。とにかくその店がそこにあったからとしか言えない。
店に顔を出すと僕はブレンドコーヒーとサンドイッチを頼む。サンドイッチはそれなりにうまいが、コーヒーはうまくもなくまずくもない中間的な味であり、プラス百五十円で御代わりができた。江口は何かの飲み物とバナナパフェを頼む。特に飲み物にこだわりはなく、毎回違うものを頼んでいたが、バナナパフェは必ず頼む。ラーメン屋で大盛を食べて腹一杯であろうと、マスターがバナナを仕入れ忘れ、バナナ抜きであろうともだ。それは彼なりの儀式だった。
店は客で満員になるということがなくいつでも空いていたし、何時間粘ろうが、マスターは何も言わなかった。客が次々と入れ替わり、区画整理や地下鉄工事で周りの景色がどんなに変わろうとも、白百合はそのままの姿だった。それは外見ばかりでなく、中の人間も同じだ。いつも僕らを迎えるのは髭面のマスターだ。そしてときおりマスターの親戚の女の子がアルバイトをしている。マスターは僕らと出会ったときから、全く変わらない風貌をしている。変わらぬ風景があるということはとりもなおさず、安心するもので、それが髭面の中年男性の姿であっても同様だった。六年前にやってきたアルバイトの女の子だけが、高校生一年生から大学生三年生に変わり、僕らに時間の経過を思い出させた。
「利益が出ているのかな。」
ずっと昔、僕はマスターに尋ねてみたことがある。
「常連がいるからね。俺一人が食っていく分には問題ないさ。」
就職して以来、僕は店に行くと必ず二杯はコーヒーを飲むことにしている。たった二杯であっても長く通えば、それなりの量だ。可能な限りお店に長く続いて欲しいし、そのためならば多少の努力もする。口ではなく金を出すのがよい客だというのが僕の持論であり、そういう意味で僕はそれなりに良い客だと自負している。
「なぜだと思う?」
江口は僕のほうを向いて尋ねる。嫌な予感がする。彼が明確に僕に答えを求めたのは十五年間の付き合いで初めてのことだ。
「何が?」
「なぜ俺はなにをやってもうまくいかないのだろう?」
「世の中、うまく行くことのほうが少ない。そのうちうまくいく。」
「そうかね。」
彼は納得しかねるといった表情をあからさまに出し、黙りこむ。
「なぜおれは女の子にもてないと思う?」
僕は言った。
「それは昔からかい?それとも最近かい?」
「昔からもてないよ。知っているだろう。」
「何事にも向き不向きがある。」
「つまり、どういうことさ。」
「宿命的にもてないってことさ。」
江口は断言する。自分でも理解してはいるが、全く救いがない答えだ。
「それとおなじさ。」
僕は少しぶっきらぼうに言った。
「何を言っているかわからないな。」
「何十年やっても手に入らないなら、きっと向いていないのさ。僕は女の子にもてたい。でも頑張ってももてない。やりたいことと、できることは一致しない。だから皆悩む。」
「じゃあ、皆どう納得するんだ?もやもやしたまま生きて、幸せか?」
「最高ではないにしろ、それなりの幸せで妥協する。ミュージシャンになれなかった人が、音楽教室の先生になるみたいにね。」
「俺はただまともに生きたいだけさ。」
「じゃあ、まともに生きる努力をするしかない。まともな職についてフルタイムで働いて、家計に堅実な女の子と結婚する。郊外に庭付き一戸建てを三十五年ローンで買い、往復三時間かけて毎日会社に通う。子供は二人で、週末は犬の散歩をする。犬はゴールデンレトリバーかな。」
「それがまとも?」
「今よりはね。それに郊外に家を買い、都心に勤める人はとても多い。ドーナツ化現象って言うだろう。」
「なあ、三十年続けてきた生き方をいまさら変えられるか?」
僕は答えることができず黙ってしまった。確かにそれは一理ある。三十年続けた生き方を変えることなんてそうそうできることではない。人がそんなに簡単に変わることができるなら、この世に悩みなどありはしない。
僕らは話題が尽きお互いに黙ってしまった。喫茶店で時間を潰す行為はアルコールの付き合いと比べて、様々なメリットがある。金がかからない。頭は痛くならない。ビール腹にもならない。しかしどんな物事にも裏表があるように、良いことばかりとは言い切れない。まずはコーヒーで歯が茶色く汚れ、息が臭くなる。そして何事も素面であるがゆえ、ごまかすことができない。特に話題に事欠いたときはつらい。僕らの沈黙と気まずさは下水道の澱のように沈殿し、その日はそれ以上、話す言葉が見つからなかった。僕らは気まずい空気を抱えたまま、店を後にした。
僕が江口と初めて会話をしたのは高校二年生の夏休みに入る直前のことだ。丁度期末テストが終わり、テスト期間の間、活動を禁止されていた部活動が再開をしたり、夏休みに友達や恋人とでかける算段をしたりして、皆がなんとなく浮き足だっている頃だ。
その当時の僕は、部活動に入らず、友達もいなかったので放課後は図書館で本を読み、飽きるとゲームセンターに通うことが日課だった。僕が通っていたゲームセンターは学校から歩いて五分ほどの場所にあった。最寄り駅から学校まで続く町の大通りから、二本ほど裏道に入ったところにある寂びれた商店街の、さらにその片隅の若い女の子が一人もいないスナックと、いつ営業しているかわからない喫茶店に挟まれて、どことなく居心地が悪そうな佇まいでそのゲームセンターはあった。人一人が通るのがやっとという感じの入口のガラス戸には何年も前の色あせたゲームのポスターがベタベタと張られている。何度となく張っては剥がしを繰り返し、かつて新品だった扉は、セロハンテープの跡で無残に黄ばんでいた。そのガラス戸を押し開けて入ると、ウナギの寝床というのがまさにぴったりの細長い空間が表れる。入口近くにはユーフォーキャッチャーとコインゲームが仲の良い夫婦のように並んでいる。その先にはレーシングゲームや、ガンシューティング、ピンボールといった大きな筐体がやや威圧的に配置され、さらにその奥には座ってプレイするビデオゲームの筐体が壁に沿って隙間なく並んでいた。冷房が効きすぎるひんやりとした暗所で、ちかちかと明滅しプレイヤーを待つ筐体は、深海魚ばかりを集めた水族館のような趣がある。店内はどれだけ換気してもタバコの匂いは消えず、トイレに近い場所では、小便のにおいがする。年齢不詳の陰気な男性店員は、いつも奥に引っ込んでいて、たまに機械の不具合を訴える客に対応していた。新しいゲームはない。いつも旬が過ぎたゲームばかり並んでいる。場末のゲームセンターのお手本のような場所だった。
高校一年生から二年生の夏休み明けまで、僕はそのゲームセンターで一昔前の対戦格闘ゲームばかりプレイしていた。二次元の画面に、二人のキャラクターが並び、その片方を操作して、もう片方をやっつけるゲームだ。そんな古いゲームをプレイする人はおらず、たいていはコンピューターを相手に戦っていたが、それでも日に二時間もそこにいると、三人か四人は対戦相手がやってくる。彼らは黙って僕の横に座り五十円玉を筐体のコイン投入口に放り込む。決着がつくと負けた方が黙って席を立つか、もう一度五十円玉を投入する。挨拶も会話もなく全てが無言で進行し、ゲームのBGMと効果音だけが響く。なぜこんなどうしようもないゲームセンターに、しかも決して最新と言えないゲームをやりにくるのだろう。駅まで行けば綺麗で広く、おまけに最新のゲームが置かれたゲームセンターもある。それなのになぜ僕らはこのゲームセンターに拘るのだろうか。自分でもわからない。
一つ確かなことは、そこにいればまず知った顔に会うことはないということだ。クラスメイトも教師も来ない。もちろん家族にも会わない。ある意味においてそこは僕が完璧に一人になれる場所であり、どういうわけか当時の僕はそういう場所を切実に求めていた。羽虫が電灯にむらがるような具合に。
江口がゲームセンターに一人でやってきたのは、とても暑い日だった。外はその夏一番の暑さを迎え、五分歩くだけ日射病になりそうだったが、ゲームセンターの店内はスケートリンクのように冷え、風邪をひきそうだった。彼がどのような経緯で、そのゲームセンターを見つけ、どのよう心持でそこにやってきたかは知らないが、とにかく彼はゲームセンターに現れ、僕と同じゲーム機に腰かけ他の対戦相手と同じようにコインを投入した。
彼は恐ろしいほど下手だった。猿にでもコントローラを渡せば、もう少しましな動きをするだろうといった具合だ。それでも彼は八回も連続でコインを投入し、八回とも僕に完膚なきまで叩きのめされた。僕にとってみれば象がありを踏みつけるがごとき圧倒的勝利であり、逆に圧倒的過ぎてつまらなくなるくらいだった。九回目のコインを投入しようとして思いとどまり、彼は立ち上がり椅子を蹴ってゲームセンターから出ていった。
適当に勝ちを譲ることもできた。しかしゲームの腕前は、僕の誇れる数少ないものであったから、例え素人相手でも手を抜くと言うことができなかった。獅子がウサギを狩るように。バカみたいな話であるが、高校生のプライドとはそのようなものだ。
「昨日はすまなかった。ちょっといらいらすることがあってね。」
翌日学校のトレイでばったりでくわしたとき、彼は切実に僕に言った。
「そういうときもあるさ。」
「お前、ゲームうまいんだな。」
「毎日やっているから。」
「すごいな。」
「しょせんゲームだぜ。毎日やるなら勉強やスポーツのほうがためになる。」
「そうでもない。何か熱中できるっていうのはある種の才能だぜ。」
「ほかにやることがないからさ。」
「俺のこと知ってるよな。同じクラスだし。」
「一応ね。でもほとんど知らない。今日まで話したことなかったからね。」
そのようにして僕らは出会い、それ以来の付き合いである。まず僕らはひと夏の間、毎日ゲームセンター通い、同じ筐体の上に五十円玉を積み上げて、際限なくコイン投入口につぎ込んでいった。ひと夏かけて彼の腕前は旧石器時代人から新石器時代人程度に進歩し、僕はそのゲーム自体に飽きてしまい、あれ以来二度と触っていない。夏が終わる頃には僕らは新しくやってきた別のゲームに鞍替えした。”新しい”と言うのは、あくまでもそのゲームセンターに置かれた他のゲームと比較しての話であり、そのゲームにしたってもう流行ったのは三年も前だった。
僕はゲームというものが好きである。けれども、それが何かの役に立つかどうかという点を問われると、沈黙するしかない。なぜそのようなものに十代という大切な時間と、汗水垂らして働いて得たアルバイトの給料をつぎ込んだのか全くわからない。同じ時間を資格の勉強にでも費やしていれば、僕は弁護士にもなれたかもしれない。得てして人生というものはそういうものなのだろう。愚者は自分の経験からしか学ぶことができない。そして学んだときにはもう遅い。僕の十代はだいたいそのようにして失われていった。僕が得たものは死んだ時間と、僅かな教訓だけだった。それでも僕は今でもテレビゲームを続けている。教訓を学ぶことと、それを実践できるかどうかは全く別のことだ。
何年か後、偶然通っていた高校の近くを通ったとき、僕はそのゲームセンターに寄ってみようとしたことがある。駅前は再開発され、多少姿を変えていたが、おぼろげな記憶をたよりに、なんとかその場所らしいところまで足を運んだ。寂びれた商店街は新興の住宅地になり、ゲームセンターは両隣の店と一緒に、ピカピカのコンビニエンスストアに変わっていた。コンビニエンスストアの店員は高校生くらいの子で、ゲームセンターのことなんてまるで知らなさそうだった。ゲームセンターの筐体達、店員、そして足繁くゲームセンターに通っていたプレイヤー達は皆どこに行ってしまったのだろう。そんなことを考えながら、僕はコンビニでペットボトルのお茶を買って、その場を後にした。
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