金曜日 街に帰る

 会社の長期休みは東京の実家に帰ることにしている。実家に帰って特に何かやることがあるわけではないけれど、それは会社の独身寮にいても同じことだ。勝手をわかっている分、時間を潰す場所や方法はいくらでもある。それに生まれ育った街というものは、誰しも無条件に帰りたくなることがあるものだ。

 そういったわけで夏休み前の最後の勤務日は仕事を早めに切り上げ、寮に戻って、帰省の準備をした。ちょっとした荷造りと簡単な部屋の掃除だ。もともと物持ちが少ない。小さなワンルームの部屋にあるものは、椅子と机とベッド、冷蔵庫と洗濯機、僅かなキッチン用品、そして段ボール箱二つもあれば収まる衣服や本の類だけだ。それが僕の全ての持ち物だ。ほとんど引っ越してきたときと変わらない。僕が今の住まいに越して来たときに世話になった引っ越し業者は、僕の持ち物を見て、少し申し訳なさそうな顔をしていた。僕の荷物を全て積みこんでも、トラックの荷台は半分も空いていたからだ。そのトラックより小さな車はなく、積み込み積み下ろしの時間も予定の半分もかからなかった。親切な業者は二割ほど料金をまけてくれた。

 そんなものだから三十分もしないうちに掃除は終わってしまった。本や服を所定の位置に収納し、テーブルを拭いて、掃除機をかけ、冷蔵庫の余り物をごみ袋にまとめる。それだけだ。物持ちが少ないと言うことは文字通り身軽ということであり、いろいろと効率が良い。僕が知っている数少ない教訓の一つだ。

 掃除が終わると、僕はごみ袋を独身寮のゴミ置場に放り込んで、ゆっくりと駅に向かって歩いた。夕方だというのに、陽射しは煩わしいほどに強く、肌がじりじりと焼かれているような気がする。畑の向こうに見える山々は緑というよりは黒々とした色をしている。さきほどシャワーを浴びたばかりなのに、もう脇の下に嫌な汗を感じる。距離感のないセミの鳴き声がありとあらゆる方向から聞こえてくる。

 駅についても、電車の時間まで一時間近くあった。駅前の今にも潰れそう本屋で適当に小説を買い、駅舎に併設された、客のほとんど入らない喫茶店に入り、窓辺の席に座った。人通りはない。東京であれば丁度、帰宅ラッシュで電車が混みだす頃だけれども、ここではそんなものとは無縁だった。駅を利用するのは隣町に通う学生と僕のような余所者だけで、地元の人間はみな、車を使う。

 ぼろぼろの駅舎とほとんどシャッターを閉ざした商店街の間には、綺麗でよく整備された広場がある。一昨年の夏に完成したばかりのその広場にはレンガ色のタイルが敷き詰められ、等間隔に花壇と街灯、ベンチが並ぶ。広場に面した道路には、車を十台は停められそうなほど広い、タクシーやバスを待つスペースがある。タクシーは一台しか止まっていなかったし、バスもめったに来ない。なぜこんなほとんど使われないものにお金をかけたのだろう。素朴な疑問だが、きっと僕の想像できないような理由があるのだろう。何か疑問に思うことがあり、おかしいと感じても、えてして間違っているのは僕である。これは経験則だ。

 初めてこの街を訪れ、この駅前に立ったとき、僕は不吉な雰囲気を感じ取り、暗い気持ちになった。この街と僕は相性が悪いような気がしたのだ。人はおらず、仕事もなく、娯楽もない。僕が勤める会社が工場を建設するまでは、僅かな林業と農業だけ、そしてどちらも儲からないうえに後継者がおらず衰退する一方だった。

「豊かな自然と、良い空気、きれいな水」

 駅前のあまり見る人がいない汚れた観光案内の看板にはこんなフレーズが書かれている。そこに魅力を感じる人はあまり多くはないようだった。少なくとも人口の推移を見ればそれがわかる。

 この街に越してきて以来、僕の生活はただ職場と自宅を往復するだけだった。何かしたくとも何もないので何もしようがない。それは貯蓄という観点においてとても良い生活だった。独身寮は会社から補助が出て格安で住めるし、飲食店が少ないので自炊するしかない。仕事以外で人に会うことがほとんどないし、会社では制服を支給されていたので、服だってほとんどいらない。利用者が少ないわりに蔵書が充実した図書館があり、市民プールは二時間百五十円でいつだって空いていた。金を使おうにも使う場所がない。ごく平均的な給料でありながら、僕の預金残高はみるみる膨らんでいった。東京ではこうはいかなかった。

 しかし通帳の金額と反比例するように、その生活は僕の中の何かを確実に蝕んでいった。職場では誰もが事務連絡以上の会話をせず、職場外では人と出会うことがない。それは半分以上は僕のライフスタイルの問題ではあったけれども、少なからず、この土地の影響があったように思う。会話の仕方を忘れそうだった。仕事以外のストレスがなく、やがて仕事になれてしまうと、仕事すらもストレスにならない。ストレスがないことがストレスになりそうだった。平たんな生活は僕の感情の起伏すらも平たんにしていった。先行きが見えない土地で、パッとしない仕事をしている陰気な男。その生き方はもはや宿命的なまでに僕にこびりつき、この後どのような場所に行っても拭えそうになかった。


 電車に乗って駅を離れるとき、僕は車窓から後ろに消えていく街をずっと眺めていた。明かりはまばらで、本当に人が住んでいるかも怪しかった。遠くに僕が勤める工場の黒いシルエットが見え、それが後方に消えていったとき、僕は目を閉じて眠りについた。疲れていたわけではないのに、僕はぐっすりと眠ってしまった。途中新幹線に乗り換えるとき一度目を覚ましたけれども、それ以外はまるで意識がなかった。何か不吉で象徴的な夢を見たような気がする。けれどもどんな内容かは全く思い出せなかった。

 東京駅に着き、中央線に乗り込んだとき、時刻は既に夜の十時を過ぎていたけれど、車内はたくさんの人でごった返していた。陰気な酔っ払いと陽気な酔っ払いが多く、どういうわけか中間的な酔っ払いはいない。あとは素面の人間だった。陽気な酔っ払いは彼らにしかわからないことを話しながら大声で笑い、陰気な酔っ払いは始終苦しそうに俯くか、ぶつぶつとよくわからないことをつぶやいていた。ほんの数時間の移動で、まるで別の国にやってきたような気分だった。僕が住む町の全人口よりも、この車内にいる人数のほうが多いのではないかと思える。車窓を流れていく雑多な都会の風景を眺め、僕は心のそこからほっとしていた。これが人間の世界なのだと思う。喧騒や猥雑さを煩わしいと感じながらも、僕はやはり自分の生まれた街が嫌いではなかった。

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