第1章 鞍馬より 2


 翌朝には昨夜の霙吹雪が嘘のような雲一つない晴天となり、日が昇る頃には昨夜の残雪は粗方溶けて消えてしまっていた。

 三人は一夜の世話になったあばら家に、もしも後で家の住人が戻ってきた場合を考え、気持ちばかりを一包み置いて村を後にした。

「其許だけ徒をさせるのでは具合が悪い。某の馬に乗られよ」

 同乗を勧められ恐縮する青年に、

「なに、この高楯黒は奥州一の駿馬。某の様な図体が一人二人増えたところでびくともせぬよ」

 そう言ってヒョイと青年の手を取って馬上へ抱え上げる。

「む?」

「どうかされたか兄上?」

 首を傾げる大男を強面の男が訝しそうに振り向く。

「いや、気のせいだろう」

 青年を前に乗せた兄が心なしか身を引き気味に妙な表情を浮かべる。

「そういえば其許の名をまだ聞いておらなかったな」

 そう問われた青年は何故か少し恥ずかし気に名乗った。

「キイチと申します」



 昨夜の吹雪は三人が夜を明かした山麓よりも内陸側の方が一層激しく吹き荒れていたものと見え、一行が目的地である平泉を目指すにつれ溶け残った牡丹雪の名残が街道にちらほらと目に付くようになり、ぬかるんだ泥道に馬の脚を屡々取られることもあったせいで、漸く河崎柵までもう数刻というところまで辿り着いた頃には既に正午を回っていた。

「やれやれ、つくづく馬達には難儀を強いてしまうのう」

 恰幅の良い体格の割に軽やかな身のこなしで大男が馬から降りると、同乗していた青年へ手を添えてやる。あまり馬には乗り慣れていない様子の青年は礼を言いながら下馬しようと地面に足を下ろした途端に少しよろめいた。その様子が微笑ましく強面が頬を緩めた。

「ここで少し休んでいこう。北上川が見えてくれば平泉はすぐ目の前じゃ」

 その言葉にほっとした様子で青年は道中乗せてくれた黒馬を労うように鬣を撫でる。

 馬も嬉しそうに目を細め首を揺らした。

「ほう、高楯黒が慣れぬ人に愛嬌を見せるとは珍しいのう」

 意外なものを見るように大男が呟いた。

(馬に慣れぬ者が手を出そうものなら、途端に舐めてかかるようなじゃじゃ馬なのだが)

 内心で独り言ちる兄の前で、黒馬は甘えるように青年の袖を咥えてみたりする。

 青年は嬉しそうに高楯黒とじゃれ合っている。

「良い馬です。都でもこれ程しっかりと筋の張った名馬はなかなか見かけませぬ」

「おお、貴公は馬がわかるか」

 乾いた岩を見つけ腰を下ろして飯の包みを広げていた強面が顔を上げる。

「この奥州は名馬の産地として名が通っておる。中でも磐井郷一帯で育まれた黒馬は京でも名のある武家の間で高値が付くほどじゃ。昨今の合戦でもこの高楯黒の親兄弟筋達が名将と戦いを共にし、大いに武勲の助けとしたと聞く」

 誇らしげに語る強面だが、微かに寂し気に目を落とす。

「いったいどれほどの兄弟馬達が、合戦を生き伸びて主と共に帰ってきたものか」

「何、世は既に泰平じゃ。この奥州は百歳ももとせの平穏を謳歌しておる。戦など遠い彼方の話よ」

 大男が腰を下ろしながら気安げに笑い、青年に乾飯を勧める。

 青年も礼を言いながら飯を受け取り、その傍らに座した。




 一行が長島の高台から大河の畔に街明かりを望める頃にはすっかり日も暮れ、金鶏山の彼方へ夕陽の最後の一片が沈もうとしていた。

 とはいえ道中は若者との話も和やかに弾み、快い疲労感の溜息を吐きながら三人は鞍から降りてポキポキと肩を鳴らした。

「あれが北上川ですか」

 ほぅ、と白い息をついて青年が指さす。

「左様。その両岸に見える灯りが平泉じゃ」

 眼下に広がるその街並みに青年は目を見張った。

 なんという広大な都市だろう。北上川の川上の向こうまで果てが見えぬほど宵の夜景が山々の狭間を縫って続いている。その中心市街の街明かりの賑わいは、夕餉の竈の煙の匂いがここまで漂ってきそうなほど。

 当時の平泉最盛期の人口は十万とも十五万ともいわれている。同じ頃、源頼朝が武家社会の首都を築き上げつつある鎌倉に匹敵あるいはそれを凌ぐほどの都市規模であった。

 決して鎌倉や京との優劣を比して俯瞰しているわけではないが、源平の合戦をはじめ、度重なる戦や混乱に翻弄され続けた京をはじめ西国の各都市と比べれば、この都は遥かに人々の活気に満ちた息遣いが聞こえるようだ。

「もうじきに日も落ちる。急ごう」



 

「ここまでの道中、ありがとうございました」

 青年が深々と頭を下げる。

 街の入口に辿り着いた時には宵の賑わいも夜の静寂に落ち着き、大路には人の姿も殆ど見えない。何処からか聞こえる夜谺のような狐の遠啼きが侘しい。

「いや、お陰で我らも楽しい道行であったぞ」

 大男が親し気に破顔する。

「今宵は我らの官舎で休まれよ。知人を訪ねるのは明日になさるが良い」

 昨夜に比べれば大分打ち解けた様子で強面も笑顔を見せる。

「何から何まで忝く存じます」

 恐縮の態で礼を言う青年に、

「ところで」

 何気なく兄が青年に問いかけた。

「其許の尋ね人というのは何という御方かな? 京に所縁のある御方なら大体は存じておるが」

「はい。その御方の名前は――」

 青年が顔を上げ、グイと頭巾の口元を見せる。

 怪訝な顔をする二人の前に意外なほど艶めかしい唇が覗いた。その上では、昨夜始めて対峙した時と同じ鋭い双眸が二人に向けられた。


「――源九郎義経様にございます」


「っ⁉」


 戦慄に近い驚愕の表情で二人が同時に身を引いた。

「……矢張り居場所をご存じなのですね?」

 二人の様子に青年の視線がすぅ、と細くなる。

「鎌倉かっ!」

 大男が腰の太刀に手を掛ける。それを見たキイチの太刀の鞘がちらりと揺れた。

「待て、兄上。キイチ殿が鎌倉の隠密ならこんな所で堂々と九郎殿の名を口にしたりはせぬ」

 兄を制しながら兄よりも一層厳しい面持ちで強面が青年を見据える。

「その尋ね人とやらについて詳しく話を聞きたい。我らと共に来てもらうぞ」

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