衣川の戦い 後

 

 文治五年(一一八九)、閏四月三十日、平泉衣川高館。


「皆鶴殿っ!」

 炎を上げる仏堂に飛び入った高衡が、声を限りに呼び叫んだ。

 すぐに、堂の床に俯せに倒れている皆鶴を見つけた。その少し離れたところに、喉を掻っ切られた義経が血だまりに沈んでいる。

「皆鶴殿……」

 駆け寄り、抱き起す。

まだ微かに息が合った。

「皆鶴殿、皆鶴殿!」

あまりに軽く華奢な身体を抱きかかえる。これ程沢山の真っ赤な血が流れ出てしまっては、今にもこの人は身体中の血を流し切り消えてなくなってしまうのではないかと、高衡は目に涙を滲ませた。

「お願いじゃ、目を開けてくれ……!」

 肩を揺らしながら、呼びかける。力なく揺れる皆鶴の血の気の失せた頬に、高衡の流す涙がぽたぽたと滴った。

 うっすらと皆鶴が目を開けた。

「皆鶴殿!」

 夢現のような眼差しでぼんやりと虚空に視線を彷徨わせる。もう殆ど何も見えていないのだろう。

「皆鶴殿! 見事じゃ。其許は使命を果たされた。義経は死んだ。もう、其許を縛めるものは何もなくなった!」

 涙に咽びながら腕に抱く愛しい人に呼び掛ける。

「だから、帰ろう? なあ、皆の待つ伽羅之御所へ。こんなところで力尽きてはならぬ。皆と、身共と一緒に暮らすのじゃ、これからも一緒に、ずっと……!」

 泣き笑いの顔で縋る高衡に、初めて皆鶴の焦点が結んだ。

 うっすらと、高衡へ微笑んだように見えた。

「ああ、皆鶴殿!」

「……は……すが……見えま……する」

「皆鶴殿……?」

「ずっと、……ずっと。……先の世の……千歳も彼方の……先の世に、一面に蓮が……咲いておりま……する」

「皆鶴殿、皆鶴殿っ!」

「そこでは、戦もなに……もな……い」

「しっかりされよ、皆鶴殿!」

 皆鶴が、満面の笑みを浮かべた。

「私は、……幸せでした。最後に……」

「待ってくれ、皆鶴、死ぬな!」

 呼びかけ続けないと、手の届かないところに行ってしまう。

 只々、この人を失ってしまうのが怖かった、恐ろしかった。

「死ぬな! 身共を、其許の故郷に連れて行ってくれるのではなかったのか!」

「私の……故郷……は、この、平泉ゆえ……」

 その頬に一筋涙が伝う。



 ――千歳の彼方まで、平泉の皆と共に。

 


 鞍馬鬼一法眼娘皆鶴姫。

 十余年もの放浪の末、辿り着いた終着の地で自分を迎えてくれた、大切な家族の腕に抱かれながら、その永い旅を終えた。



 背後から、微かな呻き声が聞こえた。

 ぞわりと、一斉に炎が揺らめいた。

 それほどに黒く大きな感情のどよめきが高衡の中で産声を上げた。

 高衡が立ち上がり、傍に転がっていた皆鶴の太刀を拾い上げる。

 渦巻くように炎が猛り狂った。

 背後から身じろぐ気配がした。

 身を震わすほどの黒い感情がみるみる身体を飲み込んだ。

 大きな音を立てて堂の一部が焼け落ちた。

 はっきりと咳き込む声が聞こえた。

 ああ、まだ生きておる。

 ゆらりと、高衡がそちらを振り向いた。

 ああ、やはり生きておった。

 一歩、一歩、そちらに歩みを進めるたびに、ざわざわと火炎が揺れ動く。

 それほどに凄まじく底知れぬ得体のしれない感情が高衡を駆り立てた。

 生きておってくれてうれしいぞ。

 握り締める刀の柄がばきばきと軋み音を立てる。

 生きておってくれてうれしいぞ。

 高衡の顔には、これまで誰も彼の顔の上に想像もしたこともないような奇妙に歪な笑い顔が張り付いていた。

 頼朝が憎かった。否、これが憎しみだと高を括っていた。

 鎌倉が憎かった。否、これ以上の憎しみはないと高を括っていた。

 だがそんなもの憎しみのうちになど入らぬものと今知った。

 生きておってくれてうれしいぞ。

 ああ、だがもう生かしてはおかぬ。

 ああ、もう一寸たりとも生かしてはおかぬ。

 ああ、本当の憎しみとは、


 この男が、自分の目の前で生きているという事が、ただ、ただ、許せない――!


(皆鶴殿、約束は守るぞ。身共は、其許が共にこの平泉で生きたことは決して忘れぬ。……だから、許せ)

 噎せ返りながら、苦し気に、切り裂かれた喉を抑えながら体を起こすその男に太刀を振り上げる高衡は、その奇妙な笑い――まさに妖気煙々と立ち昇る修羅そのものの狂貌を真っ赤な涙で濡らしていた。

(憎しみで剣を振るうは、これが最初で最後じゃ――!)


 男が顔を上げる。目が合い、恐怖に染まった顔に、刀を振り下ろした。

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