序 平泉陥落 1

 文治五年葉月二十二日、平泉市中。鎮守府陥落後。


「……なんと美しい」

 市街に踏み入り、幾らも進まぬうちに馬を止め、鞍上で暫し言葉を失っていた鎌倉軍総大将源三郎頼朝が感嘆混じりに呟いた。

「これがまことに地の果て、蝦夷住まう俘囚の地だと……?」

 後に控えた配下の将兵たちも同様に、己が見ているものが信じられぬ面持ちで目の前の光景を見渡した。

 阿津賀志山、石那坂と奥州勢を相手に激戦を繰り広げ、多くの田畑や集落を次々と焼き払いながら軍を進めた果てに鎌倉勢が辿り着いたのは神仙住まう桃源郷か、天女舞い遊ぶ蓬莱の山か。

 そう紛うほどに突如目前に出現した壮麗な仏閣群だった。

「京の平等院を模倣したものか。いや、模倣というには余りに緻密に贅が凝らされている。一体どれほどの財を注ぎ込んだのか」

 その巨大さはもとより、建物の随所に金銀螺鈿の装飾が眩いばかりに施され、在りし日の荘厳さ古今無双と伝えられる無量光院の大門を前に、頼朝の傍らに控えた参謀、畠山重忠も息を呑む。

 市中に馬を進めれば進めるほどに、それらは現世を凌駕した世界だった。

 この世に極楽を現わしたとさえいわれる観自在王院の絢爛華麗な庭園に見惚れ、輝くばかりの仏閣の数々に戦を忘れた心地で溜息をつく鎌倉兵の甲冑の音が大路に剣呑に鳴り響く一方、戦の前にはあれほど活気に満ち溢れていた平泉市中は静まり返り、家々の戸口は固く閉ざされ、市井の民は誰一人出歩くものは見えなかった。



 鎌倉軍による平泉侵略の数日前、奥州藤原一門棟梁藤原泰衡は己の居所であり奥州支配の権威の象徴でもあった伽羅之御所に火を放った。百年もの間栄華を誇り、奥州平泉の黄金文化を築き上げた一族の、真に悲壮な最期の幕引きであった。

 平治の乱、源平の争乱など、天下の争乱の中でも決して揺らぐことのなかった奥州の平穏な時代が無残にも炎を上げて燃え落ちていく様に市井の人々が涙に暮れる中、泰衡は一門の多くの者達を引き連れ、平泉を脱出した。

 自ら平泉に踏み止まることを選んだ僅かな者達を残して――



「ここが泰衡奴の居所、伽羅之御所か」

 焼け落ちた御所の瓦礫を見渡し、武者の一人が鼻を鳴らす。

「痛ましいことをする。……さぞや見事な庭園であったことだろうに」

 嘆かわしそうに顔を顰める者もいる。

 焼け跡の真中でそこだけが在りし日の名残であるかのようにぽつんと残る庭池が、遥か天上の真っ青な夏の空を映している。既に桃色の蓮の花は咲き終え、ぽつぽつと蓮の実が水面から青い首を擡げているのが侘しい。

「我らに奪われるのを惜しんだか、それとも破れかぶれに火を放ったか。いずれにしても見苦しい所業じゃ」

 武者の一人が嗤う。その言葉に重忠は内心首を傾げる。

(果たしてそうだろうか。とてもそのような浅慮を為す人物に思えぬが)

 平泉市中に入ってから、未だ一度も人に出会っていない。

 これが今までのような合戦であれば、市中に進駐軍が姿を見せるや否や、さっそく媚を売り胡麻を擦ろうという魂胆の輩がわらわらと群がってきたはず。

 かといって、主君たちの後を追い、皆一斉に街を捨てて逃げ出したわけでもない。

(……誰も、気づいておらぬのか?)

何故なら、今この瞬間もあちらこちらの民家や家屋の中から、ずけずけと御所の焼け跡に踏み入る侵略兵達に注がれる憤怒と敵意に満ちた無数の視線を、重忠は嫌というほど感じているのだから。

 内心怖気を覚えながら、ちらりと主君の方に目を遣ると、馬から降りた頼朝は無心に御所の焼け跡を見つめていた。

「……まるで夢の跡を見ているようじゃな」

 ぽつりと、誰にともなく呟く。その真意は、普段からめったに感情を見せぬ剃刀のように冷たい表情からは伺い知ることはできなかった。

佐殿すけどの!」

 一人の武者が慌てて頼朝の下に駆け寄ってきた。

「今、裏手の蔵を改めましたらば、とんでもないものが――」

 その顔色は蒼白だった。



「こ……りゃあ、凄ぇや!」

 武者の一人が呟き、息を呑んだ。

 皆が言葉を失った。蔵を覗き込んだ頼朝一同の驚き様は、無量光院や観自在王院を目の当たりにした比ではない。

 蔵の中には、眩いばかりの金塊が幾千、幾万本と俵か薪のように山と積まれていた。運び出すだけで、一体どれほどの馬と日数を要することか。蔵はこの一棟だけではなく、縦に横に十幾棟も軒を連ねている。これら全てにこの金塊が収められているとしたら……。

「これが奥州藤原一門の財力か。道理で朝廷もうかうかと手が出せんはずじゃ」

 したり顔で頷く者も、独り言ちながら舌が縺れそうになりゴクリと生唾を呑んだ。僅か二ヶ月足らずで揃えた、騎兵だけで二十八万もの俄仕立ての大軍。兵站など間に合う筈もなく、進軍の途中では兵糧の徴発と称し村々への略奪や狼藉を恣にしていた雑兵共でさえ霊験あらたかなものを前にしたように手を合わせて伏し拝んでいる有様。

「……何故、これを置いて行った?」

 皆が呆然と立ち尽くす中、唐突に口を開いたのは頼朝の寵臣、梶原景時である。

「そりゃあ、運びきれなかったからでしょうな」

 冷笑を含んで答えたものがあったが、誰も笑わなかった。

 景時の言葉に、重忠はハッとした。

(……そうだ、その通り。なぜこれをこのままここに置いて行ったのだ?)

 まともな考えの領主ならば、一大決戦を前にして万が一に備え財産を安全な場所に隠匿するか、少なくとも分散させるくらいのことはするだろう。負けて屋敷に踏み込まれることすら小癪に思い御所を焼き払うほどの小者だとしたら、何よりもそれを優先するはず。

 しかしこの黄金の山には殆ど手を付けた後すら見当たらない。

(一体、どんな男なのだ、泰衡という男は?)

「佐殿、投降を求める者がおります」

 焼け残った舎寮の方から武者の一人が歩み寄る。

「女人ばかり五人ほど、伽羅之御所の雑仕女を名乗っております」

「何、女だと?」

 武者の一人が嬉しそうに食いついた。

「詮議する。ここに連れてまいれ」

 頼朝は頷き、未だ金塊から目を離せぬままの兵達に向かって一喝した。

「よいか。これらの黄金はいずれ此の地の民を治める為に費やすべきもの。勝手な分配は許さぬぞ!」

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