終章 彼方へ
それから幾星霜もの歳月が流れ、今の世に至る。
毎年夏になると、平泉中尊寺金色堂からやや離れた小さな池に、美しい桃色の蓮が花開き、訪れる人々の目を楽しませている。
この蓮は中尊寺蓮――または泰衡蓮と呼ばれている。
昭和二十五年、金色堂の学術調査において、堂内に安置されていた藤原泰衡の首桶に副葬品として納められていた蓮の実が見つかった。その後、埋葬されて以来幾百年の時を経て平成十年に発芽に至ったものが、この蓮の花なのである。
衣川の合戦から二か月余り後、義経の兄頼朝は平泉における弟の死を絶好の口実とし、文治五年七月、朝廷の制止を退け自ら二十八万騎の大軍を率いて奥州に侵攻した。世に言う奥州合戦である。
この合戦における最大の激戦、阿津賀志山の戦いで奥州軍は総崩れとなり、総大将として指揮に当たっていた国衡は敗走中に討死した。
泰衡は最後まで鎌倉との和睦を求めながら出羽まで逃れるも、九月三日、肥内郡贄柵にて郎党の裏切りに遭い殺害される。討ち取られた泰衡の首は志和郡陣岡蜂杜に晒された。享年三十五歳と伝えられる。泰衡の死を知り駆け付けた北の方は、主人の無残な首級を前に泣き崩れ、悲しみの余り自ら命を絶ったという。
こうして、凡そ百年に渡る奥州の繁栄、そして奥州藤原氏の栄華は幕を閉じた。
戦いの果てに高衡、基成は鎌倉に投降する。その後、高衡は鎌倉幕府打倒を図る城長茂と共に建仁の乱を起こすも、幕府軍に鎮圧され悲運の最期を遂げた。多くの親しい者を次々と目前で失い、血涙に暮れたまま京へと去っていった基成のその後の消息は伝えられていない。
合戦の最中に伽羅之御所は焼かれ、当時の文献や記録の殆どは焼失してしまい、正史の多くは鎌倉方所縁の者が書き残したものを拠所としている。当時の平泉の情勢には未だ不明な点も多い。動乱を目前にした平泉を訪れ、伽羅之御所にて泰衡らと共に過ごし、共に戦った皆鶴姫の伝説は全国にいくつも語り伝えられている。
或いは義経の元に辿り着くことなく、上折壁村高沢で力尽き自害したとも伝えられている。
或いは亡骸のみがうつぼ船に乗り、気仙沼に流れ着いたとも伝えられている。
この物語もまた、それら数多伝わる皆鶴姫伝説の異聞の一つに過ぎない。
ただ、中尊寺の小池で夏風に花弁を揺らし涼やかに咲く蓮の花のみが、千歳の彼方の夢の跡を今に伝えている。
第一部 終
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