第3章 泉之館の乱 2

 二、

  

 同日 同時刻、泉之館(忠衡居所)。


 忠衡の招きで郎党数人を連れ彼の屋敷を訪れていた義経は、主人からの心尽くしのもてなしにすっかり気を良くしていた。

「いや、懐かしいのう。ここでそなたと西行殿と、三人で杯を傾けたのは一体いつのことだったか」

「西行殿がこの地を訪れたのが一昨々年、文治二年の神無月でございました。時が経つのは早ようございますな」

「確かあの時もこのように旨い蕎麦掻きを馳走になったのを覚えておる」

「粗末な田舎膳でございましたが、西行殿はお替りまで所望され、「我が心いつまでも二方の御傍に」などと洒落ておられましたっけ」

 酒も回ってか一同大いに笑う。弁慶などは旨い旨いと次々と平らげてみせ、給仕の者たちを笑わせている。

「北の方様はお留守番にございまするか。折角誂えておりましたのに、お連れになったらよろしかったものを」

「いやいや、忠衡殿。この平泉にはもう一人北の方と呼ばれる貴人がおられる。左様、押領使泰衡様の御正室、里御前様じゃ。奇遇にも我が愚妻も郷と読みは同じじゃ。紛らわしかろうて」

 鈴木三郎、亀井六郎の兄弟は蕎麦は苦手と見え、困ったように箸でつつくばかり。

「三郎殿、六郎殿。蕎麦がお口に合わぬのならこのような趣向は如何かな」

 忠衡が手を打つと、五人の見目麗しい白拍子が銚子を手に現れる。二人は顔を真っ赤にして慌てて腰を浮かせるが、手管心得た美人達に囲まれ、頭を掻きながら杯を受ける。

「お生憎、此処は俘囚の僻地である上、この非常時にございますれば、京の宴のような宴後の艶事は御期待には添えかねまするが」

「なに、美しい娘の立ち居振る舞いと、勇ましい武者の豪快な飲み振り。これ以上の酒肴はない」

 笑いながら義経は杯を飲み干した。

 ふ、と忠衡が悲しげに微笑んだ。

「……某はもう兄上が何を考えているのか判らなくなり申した。昨年の火事の一件。あの時はつい感情に任せあのようなことを口走ってしまったが、いくら祖母様と不仲であったとはいえ、思慮深い兄上があのような惨たらしい真似をするはずがない。卑劣な鎌倉の仕業に決まっておる。しかし――」

 ぎりり、と唇を噛み締める。

「なぜ兄上はこの期に及んで動そうとはせぬのか。既に陸奥出羽の全奥州に頼朝の手先が潜んでいるというに何故事を起こさぬ。先んじられてからでは遅いのだ。平和を尊ぶ我が北方の民が傷つくようなことがあってからでは遅いのだ。父上の御遺言、三人一味の起請をよもや忘れたわけではあるまい。それを何故……!」

 忠衡の様子に娘たちは酌の手を止める。釣られて侍従たちも上座の方を向く。

「忠衡殿。案ずることはない。全てこの義経に任せられよ」

 義経が慰めるように肩を叩く。

「宋軍の件、既に吉次と協議を進めておる。奥州の莫大な富があればたとえ七海の向こうの天竺すら動かすことも夢ではない」

「しかし肝心の兄上が動かぬ」

「まさしく。泰衡殿は決して動かぬだろうよ。たとえ我が兄頼朝に白刃を喉元に突き付けられたとしてもな。そなたの兄上はそういう男じゃ」

「兄上は臆病者じゃ!」

 義経に背を押され、思わず忠衡は感情的に叫んだ。

 その耳元に顔を寄せるように義経が囁く。

「いやいやどうしてそなたの兄はなかなかの食わせ者よ。忠衡殿。泰衡殿はひょっとして、そなたらをも一杯食わせようとしているとも限らんぞ?」

「……どういうことじゃ?」

 聊か酩酊した様子で忠衡が顔を上げる。

「いやなに、先の観自在王院火災の一件、あれがもし真実は泰衡の手によるものだとしたら、其許はどうなさる?」

「何を申されるかと思えば。あの日兄上は阿弥陀堂に一日中籠って居った。証人もおる」

「しかし忠衡殿よ。そなたの兄上の手が己の二本ばかりとは限るまい。五十余人、五十余対の腕が備わっているとしたら、どうじゃ?」

 がしゃん、と土器の鳴る音が響き、皆一斉に振り返る。

「し、失礼いたしました」

 白拍子の一人が慌てて片付ける。

 フン、と鼻を鳴らして義経は続ける。

「忠衡殿よ、おぬしの兄は秀衡殿の御遺言を守るつもりなど毛頭ないぞ? 狙うは僕のこの首、それだけよ。ぎりぎりまで僕の兄者を焦らし、引き付け、その上で有利な和議に持ち越そうとしておる。いや、もしや既に鎌倉と密約を交わしておるかもしれぬ。この平泉を坂東に売るつもりじゃ」

 忠衡の顔からみるみる酩酊が引いていく。

「まさか、兄上がそのようなことを」

「だからの、三郎よ。暫し耳を貸せ」

 義経侍従が見守る中、義経が忠衡に何やら耳打ちする。

「――九郎、おぬし正気で申すか!?」

 驚愕に青ざめる忠衡に義経はニヤリと笑いかける。

「全ては三郎、おぬしの考え次第よ。なに、事起こらば我が息の掛かった数千騎の武者達がすぐさま加勢に駆け付けよう。宋の水軍も、この僕に任せておけ」

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