015 黒い雪

「蓮、花……?」


「そうだよ~、ナズ姉の蓮花だよ~」

 

 永絆を後ろから包むように抱き締める蓮花が、甘やかすような声でそう言う。


「大丈夫。大丈夫だから」

 

 そして、今度は頭まで撫でてくる。戦闘の影響でぼさぼさになった永絆の藍髪を、蓮花は優しく柔らかい手つきで撫でていく。


 滲み出る母性。溢れ出る安堵。


 今の今まで張り詰めていた緊張の糸が、ぷつんと切れた気がした。


「私、さ……」


「うん」


「私——」


 我慢出来ずに流れ出てきた涙が、頬を伝う。


「人を、殺したんだ……っ」


「————」


 後ろを向く勇気が無いから、永絆には蓮花の表情は見えない。壮絶な戦いの後で混乱をして嘔吐して。でもそれがまさか人殺しの呵責によるものだとは、さしもの蓮花も予想していなかった筈だ。

 

 だから、彼女が微かに息を飲んで、撫でる手を止めて、その次に何を言われるのかが怖い。


 永絆は、酷く怯えていた。

 やがて、蓮花からの返答が来る。


「あたしの為、なんでしょ?」


「……ぇ」


「ナズ姉が理由もなしに……それも、自分本位な理由で人殺しなんかする筈が無いもん」


 分かってる。蓮花が放った優しい文言の隅々に、その言葉が染み渡っている気がした。

 心が決壊しそうなのを誤魔化すために、永絆はゆっくりと後ろを振り返る。


 そこには、聖母のように慈愛に満ちた彼女の顔があって。


「ごめんね、ナズ姉。そしてありがとう、ナズ姉……っ」


 再び、今度はより強く、抱き締められた。


「……藤実の死にざまは、物凄く惨かった……。私が、ためらいなくそれをやった」


「でも、あたしとナズ姉自身の明日が、約束される」


「裁きだとか罰だとか……そんな言葉を免罪符にしてあいつをいたぶった……!」


「誰かがそうしないといけなかった。だから、ナズ姉が自分をの手を汚してまでそれをしてくれた」


「奴に魔剣を振るっていた時、私は私とあの剣戟に酔いしれてた! あれが、あんな考えと行動を自然に出来るのが私の本性なんだって思うと……すごく、怖い。怖くて、怖くて怖くて怖くて——」


「大丈夫。あたしが居るから」


「————」


「あたしが勝手にナズ姉を巻き込んで守ってきて、今日、今度はナズ姉があたしを守ってくれたみたいに。この先、何年も、何十年もずっと、あたしがナズ姉を守る。そのために、あたしは魔剣を振るう」


 プロポーズみたいな、そんな言葉だった。

 みっともない醜態を晒して、そんな自分を真っ向から受け止めて、受け入れてくれる少女。


 そんな彼女に、永絆は震える声音で言った。


「……トイレでゲロ撒き散らして泣き喚いてるアラサー女捕まえて言うセリフじゃねぇよ……。私は、ホント……どこまで情けなくなれば気が済むんだろうな」


 それを聞くと、蓮花はいきなり抱擁を解き、スカートのポケットからハンカチを取り出して永絆の吐瀉物に塗れた口周りを優しく拭いていく。

 汚いそれを、一切の躊躇なく。嫌な顔ひとつもせずに。


「カッコイイ人は自分でカッコイイなんて言わないんですっ。あたしからすれば、こうやって美少女JKにお口拭いてもらってるところも含めて、ナズ姉はあたしのヒーローなんだから。王子様なんだから」


「むぐっ……、って、美少女は美少女って言うのかよ。そもそも私は女だ。ヒロインとかお姫様にして抱いてくれ」


「ぶはっ、ナズ姉にお姫様は似合わないよ」


「おい笑ったな。今吹いたよな、私の姓別をまるごと否定した瞬間を捉えたぞ」


「あ、でもウエディングドレスとか着せてみたらそれもそれでアリ……っていうか、女の子らしい恰好させた方が萌えるし燃える! 萌え萌えしく燃え燃えしくエモエモだよっ!」


「性癖早口言葉を生み出してんじゃねぇ!」


「……ま、だからさ、ナズ姉」


 漫才のような応酬が終わり、蓮花は真面目な顔つきになる。


「あたしはナズ姉に救われた。助けてもらった。でも、だからって訳じゃなくて、それがきっかけで、あたしはナズ姉が大好きになった」


「そんなの、偶然だよ。私は救世主でも無ければボランティアでもない。……お前が選んだんだ。私を巻き込んで、勝手に動く私を勝手に動かして現状を打開するって策を、お前が自分で練って成功させた。それだけのことだ」


「でも、それでも……あたしは、ナズ姉と出会ってよかったって思ってる。あたしはこんなだから。高二病みたいなの拗らせて、そのくせチョロいチョロインだから。だから——」


 ぽふっ、と。

 永絆の控えめな胸に顔を埋め、頬を赤く染めて今一度言う。


「——あたしはもう、ナズ姉にゾッコンなんだよ」


「————」

 

 言葉が出なかった。心臓が、血管が高速で脈打ち、永絆をまくし立てる。

 返答の言葉、急がなければ。いくつかの情報処理の過程をすっ飛ばし、いきなりその考えに辿り着いてしまうアラサー女子。


(いやいやそうじゃなくって! 可愛過ぎだろって! 不意打ちもいいところだろって! クリティカルヒットだよ! もうヤバいって! 何が何かでどうだって訳じゃなくてとりあえずや——)


「……はぁ」


「へ?」


「ナズ姉のヘタレ。バカ」


「えぇ……」


 キッ、とまではいかなくとも、それに近い鋭さをもった目付きで、けれども涙ぐんでいることでシリアスさが中和された可愛らしいその表情で、さらには上目遣いで、永絆に対してのダメ出しが行われる。


「そこはグッと抱き締めて耳元で『私もだよ……』とか囁いてから押し倒してあたしの純潔に関して少しのトークがあったのちにR18に移行って流れでしょう!」


「『私もだよ……』は言うかもしれないけど、その後の押し倒しからの下りは無理だろ! お忘れか? ここトイレだぞ!」


「トイレでのエッチだからこそ、スリルに満ちた非日常感とか臭いとかも相まってより一層捗るんじゃないの!」


「変態か! いや、私が言えた義理ではないし私だけには言われたくないとは思うが、それでも言うぞ。変態か!」


「そうだよ、変態だよ! ナズ姉の部屋に遊びに行くとき、あのクソビッチ三銃士とのエロトークと、ついつい魔が差したことがきっかけで、ナズ姉のブラウスとかパンティーとかその他諸々の匂いを嗅ぎながらシたりする癖もついちゃったんだからっ!」


「マジか! それは私とブラウスやパンティーその他諸々の冥利に尽きるな! 驚いたけど正直嬉しいよ! ——って、話脱線し過ぎな!」


「そうだね! いったん落ち着こう!」


 吸って吐いて、吸って吐いて。

 深呼吸をした後、自分の使用品をおかずにして自慰行為に耽った時のことを詳しく聞き出そうとした永絆より先に、蓮花が口を開いた。


「とにかく、ナズ姉は自分のことを卑下し過ぎなんだよ。だから当分はとりあえず、ナズ姉が大好きなあたしを信じて。それに慣れてくれば、ナズ姉はきっと、自分を信じて愛することが出来るようになるだろうから」


 微笑みと共に放たれたその言葉に、永絆もまた朗笑をたたえて「ああ、そうだな」と返す。


「私を大好きでいてくれるお前を信じるよ。そんでいつの日か、胸を張って自分が大好きだって……それこそ、ヒーローとかお姫様とか英雄とかって言えるように、努力する」


「うんっ、よろしい!」


 豊かな胸を張って納得した蓮花は、そのまま立ち上がると永絆に手を差し伸べる。


「自分で立てる……」


 そう言った矢先に膝から落ちそうになったのは、まだ永絆が戦いの疲労や恐怖から抜け出せてはいないということなのだろう。


「そういうところだよ? もっと存分にあたしを頼りなさいってば」


 蓮花が呆れたような眼差しを永絆に向け、肩を組んで支えてくれる。永絆は「ははっ」と自虐的な笑みを漏らし、


「まだ当分、努力が必要そうだな」


「ゆっくりでいいのです」


「どこの誰だよ」


「波月さん家の嫁さんです」


「そりゃいい」


 こうして、二人の魔剣使いもまた、夜闇に包まれ、剣戟が残滓する学校を後にしていく。


 自分が助けたいと願った少女に肩を貸してもらうという、なんともまあ恰好がつかない形で。


 

「そういやぁ」


 と、下駄箱近くの廊下で永絆が聞く。


「さっきの純潔云々で思い出したんだが、かの『純潔』を司る大剣霊様はどこに居るんだ?」


「大剣霊……って、ああ、ターチスさんのことね。あたしの第二のライバルの」


「勝手にライバル視すなっ。あと本当にあれは誤解だからな。あいつとはやましいことなんて何一つ無いからな。って、第一のライバルって誰だ?」


「ナズ姉の行きつけのバーのうら若き美人ママ」


「何で知ってんだよ……連れてったことも紹介した覚えも無いぞ……」


「何言ってんの? あたしはナズ姉専門の変態だよ?」


「自分で言うのかよ」


「けど言われてみれば気になるよね。あの高慢な女狐がどこで何やってたか」


「もう突っ込まないぞ」


 と、そんなやり取りをしているうちに下駄箱に着く。靴を履き変えようとしたが、永絆も蓮花も土足で入っていたことに気付き、顔を見合わせて笑う。互いに非日常の激動が続いて些かハイになっているらしい。

 そして、ようやく自分の足で歩けるようになった永絆が先にスライド式の扉を開け、


「——……ぁ?」


 開けた瞬間、白い息を吐いたまま愕然とする。


 それは蓮花も同じだった。


 二人が茫然と見遣る先には、有り得ない光景が広がっていたからだ。

 


 ——黒い雪が、降り積もっていた。

 

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